2013年12月8日日曜日


先週の説教要旨 「 献げる教会 」 使徒言行録4章32節~5章11節
 今朝の聖書箇所にはアナニアとサフィラという夫婦が登場するが、この2人がしたことは歩み始めたばかりのキリスト教会にとって痛恨の極みだった。彼らは聖霊の導きによって造られ始めていた教会の交わりを、神を欺いたと批判されるような行為によって壊してしまったのだ。「 最初が肝心 」という言葉があるが、その言葉に照らしてみるならば、教会はとてもいいスタートを切ることができていた。「 信じた人々の群れは心も思いも一つにし」(32節)とあるように、教会の特色は何かと言えば、それは「 皆が心と思いを一つにしている 」ということだった。その「 心も思いも一つ 」ということは、持ち物の所有ということにおいても現れて来た。信者の中には、一人も貧しい人がいなかった。土地や家を持っている人が皆、それを売っては代金を持ち寄り、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に応じて、おのおのに分配されたからである。世の中では、お金というのは持っている人のところに集まり、持っていない人のところからは直ぐに離れていく、それがお金の流れであると言われる。だが、そこに神が立たれるとき、お金の流れは逆流する。持っているものから持たないものへと流れ始めるのである。それは4節にあるように、決して強制的ではない。自発的である。教会の人たちは「 自分たちは神様の祝福の中を生き始めたのだ。自分たちは申命記15章4節で言われている祝福を受け継いでいる群れなのだ 」という強い確信を持っていたから、その祝福されている姿を証して行こうと考えたときに、彼らは自分たちの中に貧しい者がいなくなるようにしようと、互いに働きかけたのだ。たとえば、バルナバと呼ばれる人は、持っていた畑を売り、その代金を持って来て使徒たちの足もとに置いた。しかしアナニアとサフィラはそういう教会の交わりを、あたかも素晴らしい行為をしているかのように装い壊してしまったのだ。持っている土地を売り、そのお金を捧げたがその代金の一部を手元に残しておきながら、まるですべてを捧げたかのように振舞ったのだ。

 ペトロは2人に言った。「 なぜ、あなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、土地の代金をごまかしたのか 」・・・。そして2人は死という報いを受けたのである。ペトロはかつて「 サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている 」と言って、戒められたことがある。そのペトロの罪は赦され、アナニアとサフィラの罪は赦されなかった。悔い改める機会さえも与えられなかった。そのことは私たちを困惑させるかも知れない。あまりにも厳しいと・・・。2人は、このことを計画し、実行に移すまでの間に、繰り返し内なる聖霊の警告、指摘を受けたに違いない。しかしそれをも押しつぶしての反抗だったから・・・ということなのだろうか。なぜ、2人は即「 死 」という報いを受けたのか、正直なところ、よく分からないのである。しかしもし私たちが2人に起こった神の裁きをとやかく論ずることに心を奪われて、神を欺くことへの恐ろしさを忘れてしまうのであれば、それは教会にとって本当に恐ろしいことだ。実際に今日の教会では、神を欺いた途端に息が耐えるようなことが起こっていないように思える。しかし教会にしても信仰者にしても、神を欺いていたら、おかしな言い方だが、無事ではすまないと思う。滅びを招くと思う。「 神を欺いてはいけない。つまり、罪にまみれたままの教会であり続けることはできない 」のである。

 教会の人たちはこの衝撃的な出来事に直面し、「 こういうことでは着いていけない 」と、ひどく動揺して、教会生活につまずいてしまっただろうか。いや、そういうことはなかった。教会の若者たち、青年たちは、怒りやショックを過度に増幅させて、2人の死体を粗野に扱ったりすることなく、丁寧に葬った。つまり、このような混沌とした事態のただ中にあっても、この混沌から善きものが生まれる可能性を信じる者のように行動したのである。混沌を積極的に評価し、その混沌の中から善きものが生まれる可能性が潜んでいることを信じた・・・。果たして、それは本当に現れたのであろうか・・・。現れたのだ。「 この言葉を聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。そのことを耳にした人々は皆、非常に恐れた 」(5節)、「 教会全体とこれを聞いた人は皆、非常に恐れた 」(11節)にあるように、人間を罪深い行為から遠ざけさせる「 聖なる恐れ 」が生じたのである。混沌の中から善きものが確かに生まれた。最初が肝心・・・教会の歩みの最初において、このようなことが起こり、教会の人々は襟を正した。この恐れを味わえたのは、教会の人たちにとっては祝福であったと言える。神は、やはり人間を愛し、祝福される方なのだ。聖なる神は、人間の不敬虔を徹底して退けつつも、砕かれた謙遜な心で近づいてくる者をどこまでも祝福される方であることを教会は知らされた。その雰囲気が教会に満ちたのは、大いなる祝福である。

私たちは、動揺したり、落胆したり、憤ったり、悲嘆に暮れたりするようなことに出会う。しかしどんなときにも、そこに善きものが生まれる可能性が潜んでいることを信じることが大切だ。それは神の霊が生み出してくださる可能性。どういう状況においても、なお聖霊の力強い支えがあることを信じて、なすべきことをなしていくならば、神は必ず祝福を現わしてくださる。 2013年12月1日)