2013年12月1日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月2日~12月8日

12月2日(月) 詩 編 15編1節~5節
  主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか 」という問いから始まるこの詩編。2節以降にその答えが続くのですが、そこを読むと、私は聖なる山に住む(礼拝をするという意味です)資格はないと思わずにおれなくなるでしょう。それにも関わらず、私たちが聖なる神に近づいて、神を礼拝することができるのは、イエス・キリストが十字架について私たちの罪を贖ってくださっているからなのです。旧約聖書を読むと、本来、私たちが越えることのできない大きな溝をすでに越えさせていただいていることに気づかされます。中東の人たちは自分の天幕に迎えたひとを徹底的にもてなし、守る習慣があります。

12月3日(火) 詩 編 16編1節~21節
  測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました 」(6節)。エジプトを脱出し、カナンに定住したイスラエルの民は、土地を分けるとき、自分の好む場所を選ぶのではなく、はかり縄を投げ、それが落ちた地を自分に与えられたものとして受け取りました。神が選びに選んで、私に与えてくださったのだという信仰に立ったのです。ハンセン氏病(昔は、らい病と言われていました)の人が、「 らい 」という字は「 やまいだれ 」の中に「 」と書く、私にとってこの病は私がキリストに出会い、キリストを信頼して生きるようになるために、神が選びに選んで与えられた病だったと言いました。神は私に選びに選んだ人生を与えてくださっているのだと信頼できますように・・・・。

12月4日(水) 詩 編 17編1節~11節
   詩編17編は、苦境に立たされたダビデの眠れない夜の祈りだったと言われています。「 主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。わたしの唇に欺きはありません 」(1節)。ダビデは何のやましいところもないのに、サウル王に誤解され、憎まれ、嫌われ、いのちを狙われ、追い回されました。あなたにも、良心のとがめもないのに、人から曲解され、責められ、非難されたことがあるかも知れませんね。そんなとき、いたずらに攻撃的になったり、復讐心を持ったり、誰かに言い訳して味方になってもらおうと焦ったりしない方がいいのです。まず神に訴えるのです。なぜなら、最後的に裁かれるのは神だからです。

12月5日(木) 詩 編 18編1節~51節
   18編は、主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたときに歌ったものです。47節の「 主は命の神。わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの神をあがめよ 」は、「 主は生きておられる。わたしの・・・」と訳している聖書の方が多いようです。その方が原文に忠実ですし、ダビデの実感がよく伝わってきます。心の底から、「 主は生きておられる 」と叫べる人は幸いです。現代人は、神は死んだ、神などいない、神の働きなど全く感じられないと言います。果たして本当に神は死んだのでしょうか。いいえ、私たちが神に答える感覚、信仰、悔い改め、砕けた心で見上げる信仰の目の方が死んでしまっているのです。砕けた魂の叫びに神は必ず、ご自身を現してくださいます。イザヤ書59章1節、2節を参照。

12月6日(金) 詩 編 19編1節~15節
   詩編19編は、自然を通してお語りになる神への賛歌、聖書を通してお語りになる神への賛歌、人の良心を通してささやかれる神のへの祈りが記されています。最初の部分では、神の創造された自然の代表として太陽の姿が生き生きと描かれています。太陽は、愛と恵みと力と、いのちの象徴、神を映し出す鏡のようです。太陽は、地を温め、闇を払います。どんなに暗い夜も、必ず陽の射す朝が来ます。神のなさりようも同じです。創世記1章で神がすべてのものを造られたとき、すべての日が「 夕べがあり、朝があった 」という言葉で締めくくられていますね。神の御業はそのよう闇から光へと向かわせる性質を帯びています。あなたの人生もそうなのですよ。

12月7日(土) 詩 編 20編1節~10節
   詩編20編は「 苦難の日に主があなたに答え 」(2節)、「 我らは、我らの神、主の御名を唱える 」(8節)とあるように、苦難の日に、主の御名を唱えるあなたであるように、と語りかける詩編なのです。「 戦車を誇る者もあり、馬を誇る者 」(8節)と言うのは、苦難のときに、自らの力をより頼もうとすることなのでしょう。イエス様の日々の歩みは、寝る時間も惜しまれるほどの忙しさに満ちていました。しかしそんなイエス様の日々の活動を支えているのは、これであったと言わんばかりに、イエス様が静まりの時(祈り)を持ち、父なる神を呼んでいたことが奇跡の出来事や教えの合間に現れてくるような書き方を福音書はしていますね。忙しい活動を支える静まり、イエス様でさえ、そこから力をいただいていたのです。

12月8日(日) 詩 編 21編1節~14節
 詩編21編は、神が王に与えられた祝福と、その祝された王を通して民にもたられさる神の祝福に対する感謝の賛美です。祝福された者の心の躍動が伝わってきますね。神は「 彼を迎えて豊かな祝福を与え 」(4節)られると、あります。神は渡した痴話祝福しようと待ち構えておられる・・・あなたがこの世に生まれ出るとき、親はあなたのためにいろいろな物を備えて、待ち構えておられたことでしよう。そのように神は私たちを祝福しようと迎え、待ち構えられる方です。一度は罪に陥った人間を、再び、御子の十字架もって迎え、祝福しようと待ち構えておられた・・・。