2013年12月8日日曜日



成瀬教会 <聖書日課>  12月9日~12月15日
12月9日(月) 詩 編 22編1節~32節
  わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか 」(2節)。詩編22編はイエス様が十字架の上で口にされたことで有名です。あなたも2節の言葉を口にしたくなるようなときがあるかも知れませんね。神を遠く、遠くに感じるような時が・・・。そのとき、この詩編の言葉を自分の言葉として口にしてみてください。私の神よ、なぜですか・・・と。同じ言葉を口にされたイエス様をそのままに捨て置かれず、復活させられた父なる神が、あなたに近く見えてくるでしょう。
12月10日(火) 詩 編 23編1節~6節
   羊飼いは、狼などの外敵から羊を守るために鞭と杖を持っていました。それらは外的に向けて振り下ろされるものでしたが、時として羊自身に対しても振り下ろされることがあったそうです。羊に危険が近付いていたり、迷子になる危険があるときには、羊飼いは羊の背を鞭で打ったそうです。「 愛の鞭 」という言葉があるように、それは決して羊を痛めつけるための行為ではありませんでした。私たちの信仰生活においても、時として痛みを伴うようなことが与えられますが、必ず、その痛さの意味を知るときがやってきます。羊のように迷いやすい私たちの信仰の歩みには、羊飼いの鞭と杖が必要なのですね。
12月11日(水) 詩 編 24編1節~10節
   24編は、栄光の王なる神が聖所に入られることを歌っている詩編です。栄光の王は、「 主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた 」(2節)と言われています。私たちが生きる舞台である「 」、「 世界 」は、大海の上に置かれ、潮の流れの上に築かれているのですから、「 たえず揺さぶられる 」ことは覚悟していなければなりません。ガリラヤ湖を舟で渡る弟子たちのように・・・。しかしその揺らぐ「 」、「 世界 」を神は根底から支えていてくださる方です。私たちの「 」を一番深いところで支えているのは、「 揺らぐ地 」ではなく、地を据えられた神、揺らぐものの上に、あえてあなたの「 」を据えられた神の意志なのです。
12月12日(木) 詩 編 25編1節~22節
   この詩編は、日本語の「 いろは歌 」のように、各節の文頭にきれいにヘブライ語のアルファベットの文字が並びます。技巧的な詩であるため、繰り返しが多く、個人の嘆き、神への信頼と賛美など、いろいろな調子が混ざっている歌です。15節の「 わたしはいつも主に目を注いでいます。わたしの足を網から引き出してくださる方に 」という告白には、人生のさまざまな問題に足をからませ、それを振り払おうともがく詩人の姿を見、そこに私たち自身の姿をも重ねて見る思いがしますね。私たちは自分でからみつく網を振り払おうとしますが、実はそのような力は私たちにはありません。私たちを網から解放する方は神なのです。だからひとりでもがくよりも、目を上げて神に目を注ぐことが大切なのです。
12月13日(金) 詩 編 26編1節~12節
  わたしは完全な道を歩いてきました 」(1節)のような祈りに出会うと、わたしたちはひるんでしまいますね。しかし、詩人はこうも言っています。「 わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください 」(11節)。詩人は自分の弱さを知らない人ではなく、むしろ主の慈しみ(3節)なくしては、歩めない者であることを自覚していました。そして主という方は、完全な道を歩ませてくださいと願うならば、そのように歩める力と導きをも与えてくださる慈しみ深い方であることを知っていたのです。私にはそんな道は歩めないと、はなからあきらめて願わないこともまた、主の御心にかなうものではないのです。
12月14日(土) 詩 編 27編1節~14節
   ひとつのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを 」(4節)。ひとつの願望、ひとつの目的が、この詩人の人生を造っています。片時もその思いを忘れないのです。詩人の願いは、命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得ること。あなたの行くところ、どこであってもそこが聖所のように、主と共にあり、主を喜び仰ぐ場所となることを・・・・。あなたが商人ならば売買をしながら、主婦であるならば家事をしながら、会社勤めをしているならば勤めを果しながら、教師であるならば教えながら・・・・そこが主を仰ぎ望んで喜ぶ場となるように。あなたはあまりにも多くのことを願いすぎて、ただひとつの真実な願いを忘れていませんか。
12月15日(日) 詩 編 28編1節~9節
 28編は、何かの危険の中で助けを求めて叫んでいる詩編です。「 主よ、あなたを呼び求めます・・・わたしに対して沈黙しないでください 」(1節)との嘆きは、自分の潔白を訴え、神に逆らう者と同じ運命にあわせないでくださいとの訴え(3節~5節)を経て、「 主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました 」(6節)と、嘆きが聞かれたとの告白となります。ここに祈りの真価を見る思いがします。嘆かざるを得ない不安が、祈ることを通して安堵と確信に変えられる。詩人を取り巻く状況は変わらなかったかも知れませんが、詩人の心は確かに変化しています。祈りは状況ではなく、まず祈る者自身の心を変える。祈りの真価です。