2013年12月16日月曜日


先週の説教要旨 「 辱められることを喜び 」 使徒言行録5章12節~42節 
 2013年も残すところ、あとわずか。今年、皆さんはどのような喜びを味わったことだろうか・・・。今朝の使徒言行録5章12節以下は、「 あなたの喜びは何か 」、そう私たちに問いかけている。「 使徒たちは、イエスの名のために辱しめを受けるほどの者にされたことを喜び 」(41節)とある。イエス様は山上の説教と呼ばれる箇所で、私たちの喜び/幸いがどこにあるかを集中的に語られた。それは今まで知らなかった新しい喜びの世界へと、私たちが開かれて行くようなことであった。今朝の箇所も、私たちを新しい喜びの世界へと招き入れようとしている。
  イエス様のことを伝えて行くに連れて、人々の間に賞賛の声が上がり始め、その中から信仰に入る者たちも与えられた。それを快く思わない大祭司やサドカイ派は、使徒たちを捕らえた。しかし牢屋に入れられた使徒たちは天使によって奇跡的に救出される。そのあと再び捕らえられるが、またもやガマリエルの発言によって、使徒たちは鞭で打たれた上で釈放され。そのとき、使徒たちはイエスの名のために辱しめを受けるほどの者にされたことを喜んだ。
 使徒言行録は、教会が生まれてきたとき、この世の人々に好意をもって迎えられたと書く。私たちの教会もコンサートをすれば、たくさんの人々が来てくださり、感謝の言葉を言ってくださる。好意を持たれていると感じる。しかしそれは教会の一面であり、教会が十字架とよみがえりのキリストを伝えて行くと、多くの人々は関心を持ってくれないばかりか、時として非難され、迫害されることさえ、起きる。それもまた教会の確かな一面なのである。イエスの名のゆえに、教会はそういう面を持つ生き方をしないわけにはいかないのである。
 それと深く結びついているもうひとつの生き方は「 人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません 」(29節)という生き方である。大祭司たちには「 あの名によって教えてはならないと、厳しく命じておいたではないか。それなのに・・・」(28節)と、使徒たちに詰め寄った。しかし使徒たちはそう答えたのである。イエス様は「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい 」(マタイ16章24節)と言われた。もし、私たちが人間にではなく、神に従おうとするならば、そこには必然的に負うべき十字架が現れる。使徒たちにとって、その十字架は迫害を意味した。そのことは、はまことに私たちに厳しい思いを抱かせる。
しかし私たちは、そのような事実をただ悲壮感のみをもって受け止める必要はない。ここには非常に厳しい現実が記されているはずなのだが、悲壮感のかけらも見ることができない。なぜなら、その厳しい現実の中に神の命があふれているからであろう。
 この箇所には、「 ところが 」という言葉が19節と34節に使われている。使徒たちの十字架を負い行く歩みの中で、神は「 ところが 」という形で働かれたのだ。そのような使徒たちの姿は、使徒パウロの次の言葉を思い起こさせる。「 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために 」(Ⅱコリント4章8節~10節)。イエス様の死を身にまとうとき、すなわち与えられた十字架を担い行くとき、そこにイエス様の命が現れる。その苦難の歩みの中に、どんなにキリストが私たちを深く愛し、私たちを神の命に生かしてくださっているかが現れ出てくるというのである。それは、私たちにとって苦しみの中でこそ、知る喜びなのである。私たちがキリストに従い行くとき、そこには様々な困難が巻き起こり、そのためにそれまでの順調であった自分の人生に大きな穴が開いてしまうようなことになるかも知れない。しかし、人生において本当に大切なことは、人生に空いてしまったその大きな穴を通して、初めて見えるようになるのだ。穴が開いていないときは見えない(気がつかない)。開いてしまったからこそ見える。ある女性が突然、婦人科系の手術を受けることになり、手術のあと、もしかしたらもう子どもを産めないかも知れないと宣告され、ひどくショックを受けた。付き合っていた彼が無類の子ども好きだったのである。彼女の人生に大きな穴が開いてしまった・・・。しかしいずれは分かることだからと、婚約破棄もやむなしと覚悟して正直に話すと、彼は「 子どもを産めるあなたと結婚するのではない 」と言って、そのままの自分を受けて入れくれたと言う。そのとき彼女は、彼がどんなに自分のことを愛してくれているかを知った。もし、穴が開かなかったら、彼の本当の気持に気がつかないままに結婚生活を送ってしまったかも知れないと・・・。使徒たちにとって迫害は、大きな穴が開くことだった。しかしその穴を通してイエス様の愛がはっきり見えた。だから使徒たちは辱められることを喜んだのである。キリストに従っている私たちも人生に開く穴を恐れなくていい。むしろ、その穴から本当に大切なものが見えてくるから。  (2013年12月8日)