2013年12月16日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  12月16日~12月22日

12月16日(月) 詩 編 29編1節~11節
  主の御声は荒れ野をもだえさせ、主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。主の御声は雌鹿をもだえさせ、月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える。『 栄光あれ 』と 」(8節、9節)。この詩編は、地中海に発生した雷雨がパレスチナ上空に来襲して、レバノン杉の木を折り砕き、カデシュの荒れ野をもだえさせるありさまを歌い、私たちの「 主の御声 」をその雷鳴のすさまじさにたとえている詩編です。そのような力を秘めた「 主の声 」すなわち主の言葉は、最終的にはクリスマスの日、人となってこの世に来られたイエス・キリストだったのでした。「 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた 」(ヨハネ1章14節)。幼子イエスはインマヌエル、神は我らと共におられることのしるしとしてお生まれになりました。あの雷鳴のような大いなる力が、現実に私たちと共にあるのです。

12月17日(火) 詩 編 30編1節~13節
  なきながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる 」(6節)。暗い悲しみの夜がどんなに長くても、必ず朝は来ます。夜、主のもとから遣わされた「 喜び 」が丘を飛び越え、野を走り、あなたの家の扉を叩いて、朗らかな声を響かせてくれます。主イエス様がよみがえられた復活の朝を体験するまで、弟子たちは恐れと不安に追い詰められて、眠れぬ夜を過ごしました。しかし、よみがえりの主が自分たちを赦し、自分たちと共に歩んでくださることが分かったときから、彼らは朝が来るのが待ち遠しくなりました。死に打ち勝つ方が私たちと共におられると知ったときから、彼らの見ている世界、人生が大きく様変わりしたのです。その日一日どんなことが起きるのか、彼らは恐れではなく、むしろワクワクした期待の中で生き始めたのです。私たち信仰者が迎える朝は、そういう朝なのです。

12月18日(水) 詩 編 31編1節~25節
   慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり、わたしの魂の悩みを知ってくださいました 」(8節)。いつくしみふかき友なるイエスは、世の友われらを棄て去るときも、祈りに答えて慰めたまわん、と賛美歌にあります。順調な時の友は、私たちが一端、逆境になると姿も見せなくなりますが、イエス様は違います。モーセは苦悩の尽きなかった荒野の旅を回顧して言いました。「 あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、あなたは何一つ不足しなかった 」(申命記2章7節)。そのような方が私を知っていてくださり、共にいてくださる。それでもまだ何か不足がありますか・・・・・。

12月19日(木) 詩 編 32編1節~11節
  いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は 」(2節)。主の赦しを知らない人は罪咎を隠し、絶えず自分に言い訳をしたり、弁解をしながら生きて行なくてはなりません。それで疲れ果ててしまいます。「 欺きのない人 」とは、神の赦しの光のもとに引き出され、もはや逃げも隠れもしない人のことです。そしてその時、人間は真実に楽になるのです。

12月20日(金) 詩 編 33編1節~22節
   御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた。主は大海の水をせき止め、深淵の水を倉に納められた 」(6節、7節)。大海の水は、命を飲み込む勢力を意味します。深遠は、陰府の世界の開かれた口と考えられていました。押し迫る大海の水に、私たちは自分の命の木の葉のような軽さを思わないではいられません。しかし、そうした圧倒的な暗黒の力に厳しく限界が設けられていると聖書は言います。「 そこまで、それ以上は赦さない 」と。神の言葉から外れて、自由に暴れ狂うことなど、この世界に一つもないのだと言うことを、いつも心に留めていたいと思います。

12月21日(土) 詩 編 34編1節~23節
  主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない 」(6節)。主を仰ぎ見るのは助けを求めるためです。彼が何をしたいというわけではありません。何もできないから、神を仰ぎ見続けてきた。ただそれだけです。不思議なことです。しかし人はそのようにして輝くのです。強い人間が輝くのではなく、弱り果てて主を仰ぎ見る弱い人間が光り輝くのです。もうひとつ、「 味わい、見よ、主の恵み深さを 」(9節)。主の恵みは味わい深いもの。簡単に人の知恵で推し量ることはできません。辛い、悲しいと思われる事柄の中にも、必ず恵みは隠されています。それはやがて思いがけない形で現れ、私たちの人生を根底から変えるものになります。

12月22日(日) 詩 編 35編1節~28節
  主よ、わたしと争う者と争い、わたしと戦う者と戦ってください 」(1節)。世の中には、昔から今に至るまで大小、様々な戦いがあります。国と国との戦いで大きな犠牲を払った日本の国民は、もう戦争はこりごりだと思っています。しかしもっともっと身近なところで、争いは続き、戦いが絶えることはありません。家庭の中にさえ、骨肉の争いというものが起きます。職場や学校にも、争ってしまう相手がいます。この詩人は、そんな人生で経験する戦いを勝利させてくださいと、ストレートに神に祈ります。もし、私たちがその問題を本気で神の御前に持ち出す(祈り始める)とき、実は本当の敵が何であるか、見えて来るのです。それは相手ではなく、自分の中にある罪の思い、それが敵であったのだと気づくのです。