2013年11月17日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月18日~11月24日

11月18日(月) 詩 編 1編1節~6節
   今日から詩編を読みます。詩編の言葉は、ユタヤ人たちが祈りの言葉として用いたり、賛美の言葉として用いたりしたのです。そのことは2節の「 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ 」という言葉にも表れていますね。「 主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす 」(2節、3節)。主と親しく生きる者には、実を結ぶという約束が与えられています。しかし、ときが巡り来れば・・・とあるように、急いではなりません。寒い冬、暑い夏、それらのときを経て、実りの秋が訪れるように、私たちにも「 待つ 」ということが必要なのです。待ち通したときに、あなたの人生にも、豊かな実が実るのです。

11月19日(火) 詩 編 2編1節~12節
   この詩編は、神様が支配される歴史の壮大なパノラマを描いて見せているものですが、イエス様がすべてのものの王として即位されたことを預言したものとしても理解されています。それにしても「 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるの 」(1節)でしょうか。人間は神様に与えられた知性を用いて、原子力を開発し、臓器すら移植できるようになりました。しかし世界の1/3と言われる飢えた人の額のしわの意味が分からず、核で脅し合うことをやめようとせず、平和運動を展開する人たちが争っているのが実情です。歴史を支配しておられる方を忘れる時、人は騒ぎたち、空しい声をあげざるを得なくなるのです。

11月20日(水) 詩 編 3編1節~9節
  ダビデは息子に王位をつけ狙われる中で、「 主よ、わたしを苦しめる者はどこまで増えるのでしょうか 」(1節)と言いました。私たちは自分を悩ませる事があると夜も眠れなくなりますね。ダビデはこの状況で「 身を横たえて眠り、わたしはまた、目覚めます。主が支えていてくださいます 」(6節)と告白します。悩み事の多くは、自分が悩んだところでどうにもならないことが多いものです。むしろ、その悩み事をも支配しておられる主を信頼し、委ねて眠ることです。ダビテはそのことをよく悟っていたのです。

11月21日(木) 詩 編 4編1節~9節
  主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください 」(7節)。このダビテの祈りをあなたはしたことがありますか。暗く沈んだ顔で街中を歩く人たちが増えましたね。あなたもそのような人たちのひとりになっていませんか。「 主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない 」(詩編34編6節)とあるように、輝く主の御顔を拝する者は、自分の顔にも輝きを取り戻します。エマオ途上の二人の弟子たちは暗い顔をしていたけれども、輝く明るい顔に変えられましたね。さあ、私たちも「 主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください 」と祈りましょう。

11月22日(金) 詩 編 5編1節~6節
   主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます 」(5節)とダビデは祈りました。朝ごとに、私たちの声を聞いてくださる神様がおられます。私たち信仰者の一日は、自分ひとりで始めるのではなく、朝ごとに私たちの声を聞いてくださる方と共に始まるのです。自分の思いや決心から一日を始めるのではなく、神様にあなたの声を聞いていただくことから、あなたの一日を始めてみませんか。今までとは全く違った一日を歩めたと、夜、床に就くときに感謝で一日を終えることができますよ。

11月23日(土) 詩 編 6編1節~1Ⅰ節
 「 主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる 」(10節)。この詩編の詩人は、深い嘆きの中にいたようです。「 主よ、いつまでなのでしょう 」(4節)の言葉からは、詩人の心の中で、期待する心と失望する心が綱引きをしている様子が想像されます。3節に、「 主よ、癒してください 」との言葉がありますから、この詩人は病気に苦しんでいたのでしょう。6節からは死の予感さえ感じさせられます。嘆きに遭遇しない人生はありません。大切なことは、その嘆きを祈りとして神様の御前に注ぎ出すことです。嘆きを祈りに!!使徒パウロは伝道の妨げになるような病を担っていました。その「 肉体のとげ 」を取り去ってくださるようにと、神様に祈る中で、私にとって「 病気は恵みだったのだ 」という発見に導かれたのです(Ⅱコリント12章7節以下参照)。嘆きを祈りにしてみませんか。

11月24日(日) 詩 編 7編1節~18節
 第7編は「 訴えられる者の祈り 」と言われています。ダビデは何もやましい心も、謀反の企てもないのに、サウル王から疑われ、いのちをつけ狙われてしまいました。そういうとき、私たちだったら、どうするでしょうか・・・。ダビデは人の「 心とはらわたを調べる方 」(10節)の御前に自分を持って行きました。私はかつて胃カメラを飲んだことがありました。もちろん、楽しい経験ではありませんでしたが、疑いのあるはらわたを調べてもらったわけです。その結果、「 異常は認められませんでした。あなたの胃は牛の胃のように立派です 」との診断をいただき、戸惑いつつ??、安堵した経験があります。誤解されたり、疑われてしまうとき、私たちはまず、魂の医者である方のところに赴きましょう。主がすべてを知っていてくださるところから始めるとき、私たちの心は平安に支えられます。