2013年11月17日日曜日


先週の説教要旨 「 この名のほかに 」 使徒言行録4章1節~22節
   使徒言行録4章には、エルサレムの神殿において足の不自由な男の人を癒したことがきっかけになって、ついにペトロたちが逮捕され、裁かれるに至った経緯が記されており、そのときの弁明がイエス・キリストを証しする伝道になったことが伝えられている。この箇所から伝道ということを学んでみたい。

 ペトロたちを裁いた議会の議員たちは、何の権威によって、だれの名によってあのような奇跡をしたのか、と尋問した(7節)。それに対して、ペトロは「 あなたがたが十字架につけて殺し、神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、イエス・キリストの名によるものです。・・・ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです 」(10節、12節)と答えた。福音を語るときに、しばしば問われるのは、世の中にたくさんの宗教があるのに、なぜ、キリスト教でなければ救われないのか、ということである。自分たちの信じる宗教でなければ救われないなどと言うから宗教の争いが起きるのではないか。もっと他の宗教に対して寛容になるべきだとの非難も聞こえてくる。しかし教会は「 この名のほかに救いはない 」ということを大切に信じてきた。私たちもこのことをよく心得ていたい。しかしこのことは礼儀知らずに、乱暴に他宗教を退け、非難するような傲慢な言葉を口にして良いということではない。いつも謙遜でいなければならないし、他の宗教の人にこのことを説得することはできないのである。この主張は信じてみないと分からないのである。信仰生活を重ねて行く中で、「 私はこのキリストによる以外には決して救われ得ない人間であった 」と、その認識が深まる中で得ることができる確信なのである。だから信じてみないと分からない、納得できないことなのである。だが、この確信がないと伝道の意欲が薄れてしまうのも事実。だから私たちは「 キリストによる以外には私は決して救われ得ない人間であった 」との、イエス様との結びつきを日々、深めて行きたいと願う。

 イエス様の裁判の場では、怖くなってイエス様を見捨てて逃げ出したペトロたちが、ここでは堂々と裁きを受け、イエス様のことを証言している。驚くべき変化である。8節に「 そのとき、ペトロは聖霊に満たされて言った 」とあるように、この変化は聖霊による御業なのであり、伝道というのは聖霊に満たされないとできないということなのである。しかし聖霊に満たされさえしたら、誰にだって伝道はできることなのである。そう、弱さを抱えている私たちであっても・・・。聖霊に満たされるとは、ここでは「 主イエス以外に救いはない 」と信じて、主に身を委ねること。ただそれだけのこと、そしてその主に用いられて生きることである。「 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった 」。イエス様と共にいた・・・今もイエス様と共にいる・・・ペトロたちはそれ以外に何もない人なのである。主の御名が私たちのすべてだと言っていい。そういう私たちになっている。その時、伝道の不安も、迷いも、破れもまた主に背負われている。そのすべてをまるごと、主が受け入れ、用いてくださる。だから私たちにも伝道ができるのである。

13節に「 ペトロとヨハネの大胆な態度を見 」とある。人々に向かって大胆に語るペトロ、そうやって伝道する者と共に、ここにはもうひとり、違った形で伝道の働きを担っている者がいる。生まれつき足不自由であった男である。彼については「 しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、ひと言も言い返せなかった 」と記されている。この人は何も語っていない。黙って立っているだけ。しかしイエス・キリストの力によって生かされて、今こうして自分はあるのだということを、その存在を通して語っている。伝道する人生というのは、立派な人格者になるということではない。優れた人物、ひとかどの有能な人物になることでもない。むしろ、主イエス以外には何もない人、主イエスの救い以外には、究極的には何もない「 ただの人 」になることではないか・・・。そしてそれは「 不思議な人間 」になることなのである。人々はペトロたちを見て驚いた。不思議に思ったのである。どうしてあのような無学のただの人があんなにも大胆に、雄弁に・・・・。それは説明のつかないことであった。キリスト者というのは、説明がつかない人生を生きるのである。その人生は「 ただ、イエス・キリストと一緒にいた 」ということからだけ、説明がつくのである。主イエス様が共にいるということを抜きにしたら、説明のつかない人生を送るのである。それ以外の尺度をあてがうと理解できないのである。ずいぶん無駄に見えるということもあるだろう。変わり者に見えるということも、愚か者に見えるということもあるだろう。世の知恵からすれば、なんともったいない、なんであそこまで・・・と不思議に思われることが多々あろう。私たちキリスト者は、主イエス様が共におられるということからしか、理解できない人生を生きる。しかしそうやって生きる人生は素晴らしい人生であり、人々を驚かせ、惹きつける何かを持つ人生なのである。2013年11月10日)