2013年11月24日日曜日


先週の説教要旨 「 祈る教会 」 使徒言行録4章23節~31節

教会は、十字架につけられたイエス・キリストがあなたの主であると証する聖書の言葉を大胆に語り、伝道することを、その使命とする。しかし伝道という業は、いつの時代であっても簡単なことではない。困難が伴う。教会は、そこで知る困難な問題を、自分たちの知恵だけで解決しようとはせず、神に向かって声をあげることによって克服させていただき、伝道の働きを担い続けて来た。今朝の箇所は、そういう教会の姿を伝えている。

神殿の門のそばで、物乞いをしていた足の不自由な男の人を癒したことがきっかけとなって、ペトロは周りに集まった人たちに向かって伝道を始めた。しかしそのことが神殿の運営責任を負っていた指導者たちの耳に入り、ペトロたちは捕らえられ、「 決してイエスの名よって話したり、教えたりしにいように 」と脅されてしまう。このとき教会は、教会の命とも言うべき伝道の業を禁じられるという危機に直面したのである。釈放された2人は、仲間のところへ行き、祭司長や長老たちの言ったことを残らず話した。残らず話した・・・つまり、問題を皆で共有しようとしたのである。皆が問題を共有することをまず第一のこととしたのである。報告を聞いた教会の人たちはどうしたか。「 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った 」(24節)。まず、祈った・・・。「 声をあげて 」の「 あげる 」は、「 わたしの軛を負い、わたしに学びなさい 」とのイエス様の言葉の「 負う 」と訳されている言葉であり、「 わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい 」の「 背負う 」と同じ言葉である。つまり、教会の人たちは今、自分たちが危機的な状況にあるということを知ったとき、皆が、「 この危機に際して、私もまた負うべきことがあるならば、それを負います 」という決心をして、その決心において皆がひとつ思いになって神に向かって祈りの声をあげた、ということなのである。彼らは一体、何と祈ったのか・・・・。24節から30節に祈りが記されている。彼らは、神はすべてのものの造り主であって、すべてのことをその御手のうちに治めておられるお方。世の指導者たちが、私たちの大切な2人の伝道者を裁いて、脅したけれども、その彼らがこの世を支配しているのではない。この世を支配しておられるのは神、この危機的な状況さえも、神の手の中にあるのだという信仰をまず告白している。続いて詩編第2編を引用し、神が立てたメシヤと主に世の諸王が逆らうとのこの詩編の言葉は、イエス・キリストの十字架において成就した。指導者らはそのことに気づかないままに、今も「 イエス・キリストの名によって話すな、教えるな 」と、イエス・キリストの存在を抹殺してしまおうと企てているけれども、すべてのことを支配しておられるのは主である。その主に「 今こそ彼らの脅しに目を留め・・・大胆に御言葉を語ることができるように・・・どうか、御手を伸ばし 」と祈った。困難な状況に直面したとき、私たちはまずそれを神に向けて差し出すことができるのだ。「 主よ、今こそこの問題に目を留めてください 」と。問題を神に向けないで、自分ひとりで抱え込んで「 ああでもない、こうでもない 」とするのは、遠回りとなる。神は、「 苦難の日にわたしを呼べ、わたしはお前を救おう 」(詩編50篇15節)と約束してくださっている方だから、自分だけこんな大変な思いをしていると言いながら、それをひとりで抱え込んでいるならば、「 何とみずくさい。私とあなたのかかわりはそのようなものなのか 」と言われてしまうだろう。神はいつだって、私たちの状況に目を留めてくださいと言われることを期待しておられるし、あなたの問題に手を差し伸べようと待っておられる方なのである。もし人が、神に向かうべきところで、神に向かわずに、自分ひとりで問題を抱え込んでしまうと、どういうことになるのだろうか。「 なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、諸国の民はむなしいことを企てるのか 」という詩編第2編の言葉が引用されているが、詩編第2編を開いて読んでみると、「 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか 」となっている。もし人が、神に向かうべきところで、神に向かわずに、自分ひとりで問題を抱え込んでしまうのであれば、そこで発せられる声は、むなしく、空に響くだけになってしまう。それは「 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った 」(24節)と、実に対照的である。神に向かって声をあげるとき、それは祈りとなる。だからその声には、ふさわしい手応えが与えられる。彼らは、大胆に御言葉を語らせてくださいと祈った結果、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした(31節)。「 目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る。天地を造られた主のもとから 」(詩編121編)。天地を造られた方のもとから来る助け、それは「 祈り 」という道を通して、私たちのところへ来るのである。私たちは空しく声をあげる生き方ではなく、神からの祝福という応えをいただくような声をあげる生活をしよう。「 一同の集まっていた場所が揺れ動き 」(31節)とあるように、教会の人々は困難な状況によって揺り動かされるのではなく、聖霊に揺り動かされた。こんな幸いなことはない。ここに描かれている教会の人たちの姿は、ここにいる私たちの姿でもある。  (2013年11月17日)