2013年11月11日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月11日~11月17日

11月11日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章1節~7節a
   不思議な霊的経験をした一人の人についてパウロは語ります(2節~4節)。この人とは、実はパウロ自身なのです。なぜ、パウロは自分の経験を他人事のように語るのでしょうか。7節で、その体験を「 すばらしい 」と表現していますが、この言葉は「 尺度を超える 」という意味の言葉です。その経験は、自分の経験としては語れず、他人の事としてか語れないほどに自分の尺度を超えた事だったのです。私たちが神の祝福を受けるというのは、その最も深いところではパウロのこの体験と同じです。つまり自分の経験からすると、弱さに振りまわされ、まさに5節後半の言葉が自分でしかないと思われるそのところで、そういう自分の尺度を超えてすでに神が自分をしっかりととらえ、生かしてくださっている事を知る祝福です。

11月12日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章7節b~10節
   パウロには伝道の妨げになるようなとげがあったようです(7節)。とげは、肉体的な欠陥か精神的な欠けを言うのでしょう。パウロにとってはつらいものです。神の許容の中で、サタンがパウロに働きかけているのです(7節)。パウロはそれが取り除かれることを祈りましたが、三度(3回にわたる期間)祈って聞かれないとき、そこに神のご意志があることを知り、祈るのをやめた。サタンからの使いにとらわれているのではないかと思う体験と第三の天に引き上げられる体験(2節)。後者は14年前に一度あっただけの体験。前者は毎日の体験。両者を抱えこんでパウロは生きています。その中で主の答えを聞いています。「 わたしの恵みはあなたに十分である 」(9節)と。私たちには皆、生きるに十分な神の恵みが与えられています。

11月13日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章11節~18節
   コリント教会は伝道者の報酬という点で弱さを抱えていたので、パウロは配慮してあえて報酬を受け取らなかったようです(13節)。本来、伝道者の報酬というのは神が教会の人たちを通して与えられるものですが、コリント教会の人たちはそのような信仰的理解に立てず、伝道者を自分たちが雇うのだと考えました。そうすると、雇われた者は雇い主の言う事を当然聞くべきであるということになります。そこでパウロは受け取らない選択をしたのです。しかし教会の人たちは愚かにも、伝道者としての力量がないから、彼は報酬を受け取らなかったのだと、パウロを非難しました。パウロは相手の愚かな地平まで自分も降りて来て(11節)、愛の言葉で語りかけています。まるでイエス様が私たちに対して、語りかけてくださるようにして・・・・。

11月14日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 12章19節~21節
   パウロはコリント教会の人たちに会うとき、どんなことになるかと心配しています(20節~21節)。「 心配 」と訳された言葉は、「 恐れる 」とも訳せる言葉です。パウロは、人間を恐れているのではありません。人間の悪がうずまくとき、神がそこで何をなさるかを恐れているのです。コリントの教会の人たちが相変わらずであれば、パウロの語った神の恵みの言葉が届いていないということになり、彼は伝道者としての面目を失うかも知れない。神がそれをお許しになるかも知れない。そういう恐れ、自分の弱さを率直に語るパウロ。だからこそ、パウロは改めて「 弱さの中でこそ強い 」と言わせていただける恵みの原点に戻って来ないといけないと、自からを奮い立たせるようにキリストに結ばれて語るのです(19節)。

11月15日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章1節~4節
   パウロは2度目の訪問の際に、コリント教会で行われている様々な不道徳な行為を確認し、罪を犯している人たちに厳しく警告しておいたようです(2節)。ですから3度目の訪問では、「 私の期待に応える者であってほしい 」と願わずにおれないのです(12章20節)。パウロが不道徳な行いを「 悔い改めよ 」と言うのは、単なる道徳の勧めではありません。たとえ、世間で常識的に間違っていることであっても、なぜそれが間違っているのかをキリスト者はもっと深く悟っていなければいけない。それはキリストの言葉に背くことだから間違っているということなのです。

11月16日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章5節~10節
 「 信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい。あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが。あなたがたが失格者なら別ですが 」(5節)。信仰者の自己吟味を促すパウロ。普通「 反省しろ 」と言われるときは、「 自分がどんな人間か分かっていなくて、もっと自分のしていることをよく考えろ、自分を知れ 」という意味が込められています。しかしパウロの言う反省は反対です。「 あなたがたの内にはキリストがおられる。あなたたちは自分が何ものであるか、よく知っているはずだ。思い出してごらん 」と言うのです。キリスト者は、自分のうちにキリストがおられることを忘れるとき、本当の自分を見失っている状態にいるのです。

11月17日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 13章11節~13節
 「 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように 」は、礼拝の最後でなされる祝福の言葉です。厳しい言葉を重ねるようにこの手紙を書いたパウロは、最後は祝福で終えます。たとえ、自分の目には祝福の中にあると思えないコリント教会の状況であっても、なお、「 祝福を受けた者は祝福の中にあるのだ 」という確信にパウロは立っています。私たちも同じ確信に立って、いろいろなことに向き合って行けるといいですね。