先週の説教要旨 「 契約の子 」 使徒言行録3章11節~26節
この箇所にはペトロが語った説教が記されている。エルサレムの神殿の門のそばで物乞いをしていた生まれつき足の不自由な男が、ペトロたちに「
ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい 」との言葉をかけられると、たちどころに立ち上がり、歩き出すという奇跡が起きた。それに驚いて集まってきた人たちに向けて語った説教である。ペトロの説教は、自分の力や信心によって、この人を歩かせたのではなく、イエスの名を信じる信仰がこの人を強くし、完全にいやしたのだと言って、そのイエス・キリストがどのようなお方であるかを集中して説き明かす説教である。ペトロはイエス・キリストをいろいろな名称を用いて人々に紹介している。「 僕イエス 」(13節)、「 命の導き手イエス」(15節)と言った具合に。今朝は、この「 命の導き手 」という言葉に注目してみたい。「 あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。わたしたちは、このことの証人です 」(15節)。
「 導き手 」と訳されている言葉はとても豊かな意味を持つ言葉で、「 はじめ 」を意味する言葉から生まれた言葉。だからヘブライ人への手紙ではこの言葉を「 創始者 」というふうに訳している。命の創始者、命を造られた方というふうに。はじめというところから、先頭を歩く者という意味が引き出され、導き手という意味をも持つようになった。新共同訳聖書はそれを採用している。イエス・キリストは命の創始者、命の源。その命の源である方を、あなた方は殺してしまったとペトロは言う。命の源である方が殺されてしまう・・・そんなこと、ありえるのだろうか・・・。しかし、そのありえないことをあなたがたは引き起こしたのだ。それがあの十字架の出来事だったのだとペトロは言う。なぜ、そんなありえないことが起きたのか・・・・。人間が抱えている罪というのは、結局のところ、命の源である方を殺してしまう、なきものとしてしまう(なきもののように無視して生きる)ことを願う・・・それが人間の罪の性質なのである。しかし父なる神は、この方を死者の中から復活させられた。神はこの罪から人間を救う方法はないかと考えられた。そして唯一の方法として考えられたことが十字架の身代わり。イエス・キリストを人間の罪の身代わりとして十字架につけて殺す、それによって罪の償いを果させる。そうすることによってしか、人間の罪が消し去られる道はない。父なる神はそう決心して、実際にイエス・キリストをこの世に送って来られたのである。
あなたがたは、このイエス・キリストを殺してしまった。私たちには、あの十字架において人々のイエス様への殺意が成就してしまったように思えた。しかし神は・・・・そうなのである、あそこで成就していたのは罪人を救おうとされた神の御心であった。神の御心は変わらない。
しかし神は人々の悪しき業を救いのための御業として用いられたのである。「 しかし神は・・・」、この言葉が私たちの口癖になったらどんなに素晴らしいことだろうか。私たちは、「
しかし私は・・・」というように、神という言葉が私に入れ替わり、いつも結論が「 しかし私は・・・ 」ということで落ち着いてしまう。しかし信仰に生きる者にとって、結論はいつも「
しかし神は・・・」なのである。
ある英語の訳は、「
命の導き手 」をAuthor of life と訳していた。Authorと言うのは、著者という意味。命の著者、人生の著者。イエス・キリストはあなたの人生の著者。真にあなたの命の源として、あなたの人生を導かれる方。あなたの人生の1ページ1ページを開いて、用意してくださる方。主が用意されるその筋書きは、恵みで満ちている。星野富広さんの詩に「
秋のあじさい 」というものがある。「 一日は白い紙 消えないインクで文字を書く あせない絵の具で 色をぬる 太く細く 時にはふるえながら 一日一枚 神様がめくる 白い紙に 今日という日を綴る
」・・・・私のために白い人生の1ページを今日も用意して、めくってくださる主に信頼して、そこに自身の一日の歩みを書き込んでいく喜びが伝わってくる詩である。人生とは、そうやって主から与えられるもの、自分のものじゃない。自分のものだと考えると、自分でその責任を負わなくてはいけないと考えるようになるから、つらくなる。何でも自分ひとりで背負っているように思えてしまうのである。だが、主の筋書を信じる者は違う姿勢で生きるようになる。それは無責任ではなく、主に委ねるという死生を生む。人生の著者に委ねつつ、生きる。
私の牧師仲間の知人は、自分が犯してしまった大きな過ちを赦せずに苦しんでいた。すでに相手も相手の家族も、彼を赦してくれていたのだが・・・。彼はその苦しみをノートに書き綴った。毎日、毎日・・・。そうやって彼は過去にとらわれ、新しい人生の一歩を踏み出せないでいた。その気持は痛いほど分かる。彼のことを心配した友が彼を旅行に誘った。だがその旅行の最中に、彼はその大切なノートを無くしてしまう。何度、来た道を引き返して探しても見つからない。だが奇しきかな・・・彼がそのノートを無くした日は、彼があの忌まわしい過ちを犯してしまった日と同じ日であった。彼は、主が「もう過去の過ちにこだわるな。新しい一歩を歩み出そう
」と働きかけくださったのだと受け止めた。(2013年11月3日)