2013年11月3日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  11月4日~11月10日

11月4日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章6節~15節
  各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです 」(7節)は、大切にしたい御言葉です。献金のことについてパウロは語りますが、おのおのが心で決めれば良い、喜んで与えれば良いと言います。そのような強制など感じない、不承不承などと感じない心はどこから生れてくるのでしょうか?それは神様が私を生かし、支えていてくださるという信仰です。5羽まとめて買えば1羽おまけについてくる雀でさえ、神は御目を注いでいてくださる。その雀以上の存在である私に神がまなざしを注がれていないはずがない(ルカ12章6節~7節)。すべてを神にお任せしている信仰は、いつでも喜んで捧げる心を造ります。

11月5日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章1節~6節
 パウロは、コリントの一部の人たちから悪評をもらっていました(1節)。しかし、そのような悪評を言う者には勇敢に立ち向かうと言います(2節)。「 わたしたちの戦いの武器は肉のものではなく、神に由来する力であって要塞も破壊するに足ります 」(4節)。パウロは神が与えてくださる戦いの武器、神に由来する力によって悪評にも立ち向かいます。その武器は、キリストの優しさと心の広さ(1節)です。悪に対して悪をもって戦わない。悪に対して善をもって戦うのです。そこに神に由来する力が大きく働きます。世の人には、愚かな戦い方に見えるかも知れませんが、これが最も良い結果を得る戦い方なのです。

11月6日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章7節~11節
   パウロは12弟子の後から使徒として登場しました。コリント教会のペトロ派を自認する人たちは、自分たちは12使徒の直系であり、後から「 自分は使徒だ 」と出て来たパウロの、使徒としての権威を容易に認めることができなかったようです。私たちには権威を正しく理解して受け入れるのを難しいと感じることがあります。権威=威張るというイメージがあるからでしょうか。しかし、神から与えられる権威は、威張る権威ではなく、御言葉を通して人を建てあげる権威です(8節)。信徒も牧師も共に、御言葉を語り抜くために立てられている権威を重んじるのです。御言葉を語る牧師も自分に与えられている権威をいい加減に考えてはいけない。信徒も自分たちを建て上げるために目の前に置かれた権威を重んじる。そのようにして私たちは、実は人の権威ではなく、キリストの御業の権威を重んじるのです。

11月7日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 10章12節~18節
   コリント教会は、パウロの伝道生涯の中でもかなり長く時間を費やしたところです。しかしコリント教会では、「 パウロは限度を超えて働いた。他の伝道者に任せていれば良いのに、わざわざコリントまで来て長く働き、自分たちを誇ろうとしたのだ 」という非難があったようです。そこでパウロは、自分たちは限度を超えてはいない。むしろコリント教会の活動も自分たちの限度の範囲内に過ぎないと反論しています。自分が神様から託されている限度/範囲( 能力 )を正しく理解し、そこで精一杯働くことで満足できる心があるのは素晴らしいことです。他者と比較する心から自由になるには、神は一人一人に能力、範囲を与えておられる。しかし、それは「 公平に 」ではないという事実を真摯に受け止めることが大事なのです。

11月8日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章1節~6節
   キリスト者は、キリストの愛以外のものは受け入れません。つまり、キリストへの愛を損なわせるようなものを退けるのです。ただひたすら目の前におられるイエス様を愛するのです。パウロはそれを結婚の関係にたとえています(2節)。さしずめパウロは、自分の娘を一人の人に嫁がせた父親の心境でしょうか。夫であるキリストへの愛を一途に貫いて愛のかかわりをいよいよ深めて行ってほしい。誘惑があることを知っているだけに、一層真剣に願わずにおれないのです。そのようなパウロの抱く熱い思いは、神様がコリントの人々に抱く熱い思いの反映なのです(2節)。パウロの言葉から私たちに注がれている神様の愛が見えてきますね。

11月9日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章7節~15節
 パウロはいろいろな教会で伝道活動をしましたが、それぞれの教会の事情に応じて、伝道者としての報酬をもらったり、もらわなかったりと、自由な形で伝道しました。コリント教会では、無報酬で伝道したようです(他教会の援助で伝道した)。それがかえって、パウロはやましいところがあるから報酬を受けなかったのだと非難される結果を招いたようです。なぜ、パウロが無報酬で伝道したのか、コリント教会への配慮があったのでしょうが(9節)、詳しい理由はわかりません。自分の思いやりを非難の道具にされてしまったパウロの心境を察します。そのようなパウロの自由は、独善的でなく神がご存知です(11節)と言える点にかかっています。

11月10日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 11章16節~33節
 自慢話をすることは愚かな事です。しかし、パウロはそれをしないわけにはいかないところに置かれていました。彼はあえて、愚か者になって、肉の誇りを誇ります。キリストのために数多くの労苦を経験してきたことを長々と語ります。パウロの伝道者としてのスタートはダマスコでした。30節~31節は、パウロのダマスコでの体験です。そのスタートは苦難から始まりでしたが、そこでパウロは神のご加護を体験したのです。そのことがいつも伝道者パウロの苦難に対する姿勢を造りました。神は一人一人にそのような信仰生活を支える原体験を与えてくださいます。