2013年10月27日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月28日~11月3日

10月28日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章2節~節
 一度心を閉じてしまった人の心を開くのは難しいことです。おそらく、人の心を開かせることは人間のすることで最も難しいことでしょう。伝道者はいつもそれに心を配るので、一人でも心を開く人がいると夜も眠れないくらい喜ぶものです。それだけに自分に対して心を開いてくれないコリントの人たちのことでは苦しんだことでしょう。しかし、パウロは手を焼くコリントの人たちに厚い信頼を寄せていると書きます(4節)。心を閉ざしている人になお、信頼を寄せているというのは、私たちの現実の対応とは大きく違います。私たちは心を開いていないなら、相手も心を開かないし、信頼しない、となるものです。しかしパウロは違う。なぜか?パウロはあの人たちにも同じ御霊が宿っていることを信じていました。神の力があの人たちにも働いていることを信じていたのです。仲間を見るときの大切な視点です。

10月29日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章5節~13節
  神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします 」(10節)。神の御心に適った悲しみとは、罪を悲しむ悲しみです。これは、「 悲しむ者は幸い 」というマタイ5章4節の言葉と重なります。私たちは、心を込めてこのような悲しみを悲しむことがあるでしょうか。「 熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめ 」(11節)をもたらすような悲しみを。現代の教会は、この悲しみの涙を流すことが少なくなったと言われます。しかし世の悲しみ(10節)ではなく、この悲しみでなければ私たちの生活を建て直すことはできないのです。ルカ18章9節~14節も読もう。

10月30日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 7章13節b~16節
  わたしは、すべての点であなたがたを信頼できることを喜んでいます 」(16節)。コリント教会の人々を信頼できることを喜ぶパウロ。ここにキリスト者としての信頼がどのようなものであるかがはっきりと現れています。コリント教会の人たちがパウロの信頼を得たのは、彼らが落ち度なく信仰の道を歩んでいるからではありません。むしろ、彼らはパウロを悲しませるような罪を犯していたのです(2章5節参照)。彼らがパウロの信頼を得たのは悔い改めたからです(9節)。完全無欠だからではなく、過ちを認めて悔い改める心があるからです。神が私たちを信頼される心も同じような心ですし、私たちが仲間を信頼する心も同じ心なのです。

10月31日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章1節~7節
 パウロは、コリント教会の人たちにマケドニア州の教会の人たちの慈善の業を語り聞かせています。エルサレム教会のために心を用いたマケドニア教会の人たちは、他人のことなど考えていられない苦しみの中にいるにもかかわらず、捧げものをしたのでした(2節)。物に対する姿勢を考えさせられます。自分の家族だけ物があればそれでいいというのではなく、分け合うのです。貧しさの中でも捧げたと言う事からひとつの言葉が思い出されます。「 だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい 」(マタイ7章12節)。自分の貧しさの中で人の必要を知るのです。マケドニアの諸教会の人たち経済的には貧しくとも、神の恵みの豊かさによって生かされていたのです。私たちはどうでしょうか。

11月1日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章8節~15節
 マケドニア州の教会の人たち(フィリピの教会など)の捧げる姿勢に照らしてコリントの教会の人に捧げ物を促すパウロ(コリント教会はエルサレムへの捧げものを中断していたらしい)。「 多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった 」(15節)の言葉は、マナの出来事を語る旧約聖書の言葉です。聖書の思想は、「 能力に応じて捧げ、必要に応じて受ける 」です。より強い者がより弱い者の弱さを担うのです。社会の中に強い者と弱い者が存在するのを神が許容しておられるは、分かち合う人間の姿の中に、真の人間の姿があるからで、神はそれをご覧になりたいと思っておれるからなのでしょう。

11月2日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 8章16節~24節
 熱心、熱意と言う言葉が繰り返し使われています(16、17、19、22節)。熱意、熱心がないところには、何も成り立たないものです。特に、恵みの業に生きようとする時はそうです。他教会の人と話していて、熱意を人任せ、神任せにして、うちの教会は熱意がないからダメという事を耳にすることがあります。しかしパウロは、私たちにはその熱意がいつも神様から与えられているのだ、という確信を持っていました。熱心というのは、いつも赤々と燃えていて煮えたぎっていることではありません。変わることのない神様の熱心を反映する私たちの変わらざる思い、神の恵みに応える思い、それが熱心です。表面に現れなくても神の恵みに応えようとする静かな、変わる事のない心の決意です。熱は温度の高い方(神の熱意)から低い方(私たち)へ必ず伝わる性質があります。両者がつながっていれば・・・。

11月3日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 9章1節~5節
 9章は献金について語られています。しかし献金という具体的なお金の用い方の背後に、お金以外のものも含めて仲間の窮乏を助けるためにそれを集め捧げるという中に、どれだけ深く私たちの信仰の問題が潜んでいるかということをはっきりさせ、丁寧に教えている箇所です。5節の「 渋る 」は「 貪欲 」、「 惜しまず差し出す 」とは「 祝福 」と訳される言葉です。貪欲に勝つには祝福を差し出せるかどうかです。相手の祝福を考えることに徹する。パウロはまずそのことを問います。