2013年10月27日日曜日


先週の説教要旨 「 イエスキリストの名によって 」 使徒言行録3章1節~10節
 私は初めて教会の礼拝に参加したとき、お祈りの最後のアーメンという言葉が、皆きちんとそろうことにとても驚いた。こんなにたくさんの人がいるのに・・・皆、同じ信仰を持っているから、こんなにピッタリと合うのだろうなあ。自分も早く、皆に合わせてアーメンと言えるようになりたいと思った。しばらくして、イエス・キリストの御名によって、つまりイエス・キリストの名によって、というフレーズが出たらアーメンと言えばいい、ということが分かった。「 なんだ。合言葉があったのか 」と、少しガッカリした。だが洗礼を受け、信仰者として歩んで行く中で、「 イエス・キリストの名によって 」という言葉を口にすることは、意義深いことなのだと分かった。「 単なる合言葉 」なんて言ったら怒られてしまうほどに・・・。
 「 イエス・キリストの名によって 」と、唱えることはイエス・キリストの実印が託されているようなものだ。実印は、印が押され、印鑑証明書がくっついていれば、効力を発揮するものとなる。印鑑が押されていたら、印鑑の持ち主がその責任をすべて引き受けることになる。イエス・キリストが「 わたしの名によって祈りなさい 」と言ってくださったことは、まさに「 私の実印をあなたがたに託す 」と言ってくださったようなものなのであり、キリストの名によって祈りが捧げられる時、キリストは「 キリストの名のゆえに 」、そこで働いてくださるのである。その祈りに対して責任を引き受けてくださるのである。祈りだけではない。イエス・キリストの名によって命じられること、あるいは宣言することもそうなのである。今朝の礼拝には先日、結婚式を挙げられたご夫妻が出席されているが、お二人は式の中で「 父と子と聖霊との名によって、2人が夫婦であることを宣言する 」という宣言を聞いた。それは、この2人が夫婦であることにイエス・キリストが責任を持ってくださるということなのである。そのように「 イエス・キリストの名 」を唱えるよう、私たちにその名が託されているということは、とても素晴らしい、大いなる祝福を意味しているのである。
  使徒言行録3章には、イエス・キリストの弟子であったペトロとヨハネの2人が、神殿に祈りに行く途中に、生まれながらに足の不自由な男の人を見つけ、その人に「 イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい 」と語りかけると、「 たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして、躍り上がって立ち、歩き出した 」と言うことが書かれている。キリストの名によってペトロが命じたとき、復活のイエス・キリストが、そこに臨んでくださり、その力を働かせてくださったのである。
  私は、イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩くことができるようになったこの男の人は、それまでどんな生き方をしてきていたのだろうかと想像する。神様の恵みの麗しさを表現した美しい門の前に、彼は荷物のように「 運ばれて 」「 置かれていた 」のだ。神の恵みの麗しさを現す門の前で、その神の恵みとは無関係なものとして(当時、生まれつき体の不自由な者は、神に見捨てられているとみなされていた)、そこに置かれている。これほど、皮肉なこと、痛ましいことはない。しかし彼は生きて行くために、そこに運んで置いてもらわなければならなかったのだ。そのようにしか生きる術を持てなかったこの人の気持を想像し、思い巡らしていると、「 ああ、この人と私たちは同じようなところがあるなあ 」って、思えてくる。この人は、イエス・キリストの名によって立ち上がって歩けるようになったわけだが、それまでは、自分の足で立ち上がっていなかった。言って見れば、もたれかかって生きていたのである。何かに・・・。自分がこういう生き方しかできないのは、生まれながらに足が不自由だったからなのだ。そういう人が働けるような仕事が、この社会にないからなのだ。回りの人がもっともっと自分のことを真剣に考えてくれないから、こうなのだ・・・・。誰それが悪いから。あの人のせいで自分はこうなった・・・、自分を取り巻く環境が悪いから・・・、たまたま運が悪かったから・・・そういうふうに、自分がこういう生き方をしているのは、自分の責任じゃない。あのひとのせい。まわりのせい。神様のせい・・・と言う具合に何かのせいにしながら生きている、つまり、もたれかかって生きている。人は往々にして、そういう生き方をしがちなのではないだろうか・・・。確かに彼の足の不自由は生まれつきのもので、降りかかった災難としか言いようがない。だが、この人生をどう生きるかは自分の責任なのだから、自分で決断して、自分で責任を負う生き方をして行かなければ本当に深い喜びには出会えないし、充実した人生は送れない。
  実は、私もそういう人生を生きていた、かつては・・・もたれかかる人生を・・・。しかし信仰に導かれ、キリストの名を唱えることを知るようになって、私はもたれかかる生き方から解放された。キリストの名を唱えつつ生きる者の人生のすべてを、その責任をキリストは引き受けていてくださるのだから。だからもう、もたれかからなくていい。キリストの名によって立ち上がる、キリストの名を唱えながら生きる、それは必ずしも、私たちの願った通りの人生が歩めるということを意味しない。ニューヨークのリハビリセンター研究所の受付の壁に貼られた祈りの言葉のように。だが最後には「 私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されていた 」と言わせていただけるのである。
                                                2013年10月20日)