2013年10月7日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  10月7日~13日

10月7日(月)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章1節~2節
 コリント教会の中に、パウロは伝道者として信頼できるか?という問題が湧き起こっていました。自分自身のことを信頼してもらえず、教会員との関係がおかしくなってしまっている。心を込めて第一の手紙を書いたけれども、かえってそれで関係がおかしくなる。パウロであれば、こんな分からず屋の教会はもうご免だと言って他の教会に移ることもできたでしょう。しかし、パウロはそれをしません。彼らを神の教会と呼び(1節)、文句を言うことからではなく、恵みと平和を祈ることから始めます(2節)。コリント教会は自分の手から離れてしまっていても、神の手からは離されてはいないと見ている。ここに手紙を書き続ける使徒の信仰が伺えます。自分の手に負えない人も神の手からは離れていない、私たちにも大切な見方です。

10月8日(火)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章3節~7節
 慰めという言葉が8回も出てきます。この言葉は、かえってコリント教会の人たちのために苦しんでいるパウロの苦しみの深さを浮かび上がらせています。しかしパウロは、その苦しみの中で慰められています。苦しみが慰めへと変わる、その転換点は5節に記されています。キリストの苦難が満ち溢れてパウロにも及び、パウロの苦しみを覆ってしまう。その時、慰めが始まるのです。パウロは自分の苦しみを通して、自分のために苦しまれたキリストのその苦しみを感じ取っているのです。このような、いやこれ以上の苦しみに耐えてくださったのか、この私のために・・・と。そしてキリストの愛の深さに慰めを得ているのです。どんな苦難にも耐える慰めを神はイエス・キリストの苦しみにおいて用意されています。

10月9日(水)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章8節~11節
 パウロは、自分がアジア州で被った苦難について語ります(8節)。それは、死の宣告を受けた思いでした(9節)と。死の宣告を受けるとは、自分が頼りにならないという経験をすると言うことでしょう。そのような中で、パウロは「 自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました 」(9節)と言っています。人間は、自分を頼りにする度合いに応じて、神を疑います。ここで、パウロの神への信頼は、祈りという形で現れています(11節)。神を信頼する者は自分で祈るだけでなく、他の人にも祈りを要請します。私たちも、もっともっと友に祈りの支援を要請することで神への信頼を表して良いのです。

10月10日(木)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章12節~14節
  パウロは、自分はただひたすら神の恵みの下に行動してきた(12節)と言っています。そして、それは自分の誇りでさえあると言っています。普通に考えると、「 神の恵みがないとやって行けない 」と言うことと「 誇りがある 」と言うことと相反することのように思えます。神の力を借りないとやれないなどとは、まさに人間としての誇りはどこにあるのか?と言われてしまいそうです。パウロは神の恵みに対する誇りを語っているのでしょう。神の恵みに対する絶対的な信頼です。その神の恵みが働いているのだから、コリント教会との難問も必ず解決されると信じているのです。私たちも神の恵みに対する誇りを持っていいのです。

10月11日(金)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章15節~22節
 パウロはコリント訪問計画を立てていたのですが(15節)、実際にはその計画を変更せざるを得なかったようです。そこで教会内で嘘つき、信頼できないなどと批判が起きました(17節)。パウロは、その弁明として、神は真実なお方であり(18節)、神の約束はことごとくイエス・キリストにおいて果たされたことを語ります(19節、20節)。どうしてそれがパウロの弁明になり得るのか?それは神の真実を宣べ伝えているパウロ自身が、どうして不真実であって良いだろうか、そのようなことは決してない、という理屈です。たとえ人の目にはどのように映ろうとも神の前だけには真実に生きようとしていたからこそ、言える理屈です。私たちも、人の目を気にするのではなく、全てを見抜かれる神の目を意識して生きましょう。

10月12日(土)コリントの信徒への手紙Ⅱ 1章23節~24節
 コリントの教会で何が問題になっていたかは良く分かりませんが、教会の中でパウロが自分たちの信仰を支配する(24節)という非難があったようです。パウロはそれに反論しています(24節)。私たちは人の信仰を自分の思い通りに支配したいという誘惑があります。夫の信仰を、子どもの信仰を、仲間の信仰を。特に牧師は、「 先生がいないと、私たちの信仰が成り立ちません 」などと言われることを喜ぶ傾向があります。しかしこれは罪です。自分がその人たちの信仰を支配してしまうのです。パウロは「 私はあなたがたのために神に協力する者(24節、6章1節参照)」と語ります。神こそが、あなたがたの信仰を成り立たせておられるのです。

 10月13日(日)コリントの信徒への手紙Ⅱ 2章1節~4節
 教会のために悲しみの涙を流し続けるパウロ。その悲しみの原因は、教会内の罪の問題だったと言われます(5節以降参照)。パウロは、コリント教会の罪の問題を彼らに先立って悲しみ、涙を流しています。そして、その涙の中に彼らを誘うのです。罪の悲しみの涙の先にある喜びへと彼らを導くためです(7章10節参照)。これは、主に仕えることで知る悲しみ、憂い、涙です。だから主に支えられて流す涙であって、望みを失って流す涙ではありません。あなたはどのような涙を流しますか。主の平安の中で、流す涙は必ず喜びのときが来ると信じて良いのです。