2013年10月7日月曜日


先週の説教要旨 「 私たちは皆、証人 」 使徒言行録2章22節~42節
 ペンテコステの日に約束の聖霊が降ると、そこに集まっていた人々に向かってペトロが説教を始めた。今朝は先週に続いて、その説教の続きの部分を読む。ペトロはダビデが作ったと言われる詩編の言葉をいくつか、ここで引用している。25節~28節、31節、34節~35節の部分であり、詩編16編と132編からの引用である。ユダヤ人にとって詩編は、神の掟、すなわち律法の言葉と並んで、とても大切なものだった。ユダヤ人たちは、詩編の言葉を祈りの言葉として用い、また、詩編の言葉を歌って、賛美とした。現代のように手軽に聖書を手に入れることのできない時代だったから、皆、一生懸命詩編の言葉を耳で聞いて覚えたのである。ペトロは小さい頃から詩編の言葉を覚え、祈り、歌ってきたことだろう。しかしその歌い慣れていた詩編の言葉をペトロは全く思いがけない思いでここに引用する。「 あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにしておかれない 」・・・ペトロはイエス様の十字架と復活の出来事に触れてこの詩編の意味がよく分かった。この歌はダビデが自分のことを歌っている歌ではなくて、(実際、ダビデは墓に葬られたままで、今もその墓があるではないか)。この歌はイエス様のことを歌っていたのだ。ダビデはすでにあのとき、イエス様のことを預言して歌っていたのだと・・・。ペトロは驚きながら詩編の歌を歌い始めている。それで31節でもう1回、同じことを語り、そして、私たちは皆、その復活の証人だと宣言する。

 ダビデの歌を何度も引用したペトロの説教の結びは、こうなっている「 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです 」(36節)。主となさった・・・主というのは、私たちの「 救い主 」という意味と同時に、私たちの「 主人 」、すなわち私たちを支配する方という意味がある。もちろん、それは恵みによる支配であって、強制的なものではない。だから信仰というのは、ひとつの言い方をすると、自分たちを支配する方は誰であるかと言うことを明確に知ることなのである。振り返ってみると、旧約聖書に登場するアダムとエバは、蛇( サタン )に誘われて罪を犯した。蛇はエバに言った。「 神が食べてはならないと言われた木の実を食べてご覧なさい。そうしたら、あなたは善悪を知ることが出来る 」と。善悪を知るというのは、裁きができるようになるということである。善悪の判断が出来るようになったら、裁きを行なうことができるようになるのだ。支配する者というのは、この裁きを行なうことができる者のことである。それゆえ、蛇の誘いの内容は、善悪の判断が出来るようになったら、あなたは神様がいらなくなるでしょうと言うことだったのである。神様にいちいち、これは善いことですか、悪いことですか、神様のみ教えに従って善悪をわきまえて生きる。そのようにして神の支配を受け入れる。そんなややっこしいことをしなくて済むでしょう。あなたが神になる、あなた自身が自分を支配することができるようになる。あなたが自分の主になることができる。自分以外の主はいらなくなる・・・・と言うものであった。そしてそれが罪の始まりであった。罪とは、自分が自分の主人になって生きるようになるということなのである。しかし神は、「 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさった 」・・・このイエスを主として迎え入れるところにあなたにとっての救いが始まるのである。

 次に、イエス様はどのようにして私たちの主となられたのであろうか。それは、十字架につけられ、そしておよみがえりになることによって、である。「 神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです 」(24節)。よみがえりの主の支配は、死の支配を退けたところに生まれた。だから、よみがえられたイエスを私たちが主として迎え入れたとき、私たち自身もよみがえりの命に生きることができるようになる。もはや、死ぬことへの不安に押しつぶされないようになる。それは、よみがえりのイエス様を主として迎え入れるとき、私たちには与えられる恵みのひとつである。「 わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。だから、わたしの心は楽しみ、舌は喜びたたえる。体も希望のうちに生きるであろう 」(25節~26節)。何気ない言葉だが、「 体も希望のうちに生きる 」とは驚くべく言葉である。私たちは年を取るといつも死を覚えるようになる。正直に言って、人間の心は動揺する。あと何年、この目でこの人を見ることができるのだろうか。あと何年、この耳でこの人の言うことを聞くことができるのだろうか。あと何年、この口で歌を歌うことができるのだろうか・・・。すべてが闇の中に溶け込んでしまうかも知れないと、死を恐れ、死を見つめざるを得なくなる。その時、心が動揺する。楽しめなくなる。しかしそこで私たちは言うことが出来るのだ。私たちの体は朽ち果てる。私たちは必ず、肉体の死を迎える。しかしその体をもって、希望のうちに生きることができる。よみがえりの主がわたしたちの傍らにおられるからと・・・。(2013年9月29日)