2013年10月13日日曜日


先週の説教要旨 「 教会の誕生 」 使徒言行録2章37節~47節
「 兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか 」・・・聖霊降臨の日に伝道者として立てられた使徒たちが証をし、説教をした。それに耳を傾けていた人たちの心は大きく動かされ、そう言ったのである。この問いにペトロたちが答え、そこにイエス・キリストの教会が生まれた。今朝は、その教会がどのような群れであるかを学びたい。「 どうしたらよいのですか 」・・・神が造られた人間がそのように問いかけずにおれなくなるとき、それに答えるのが教会である。あるいはまた、そういう問いを呼び起こすために、教会は存在しているとも言える。「 あなたがたはそれで良いのですか。新しく何かを始めなければならないのではないですか。そうでなければ救われないのではないですか・・・」と。ペトロは人々の問いに答えた。「 悔い改めて、洗礼を受けて、罪を赦していただきなさい 」と。このとき以来、世界中で教会が言い続けていることである。これを伝道と言う。救いの道を宣べ伝える。そのときに必ず、語り告げなければならないことがある。それは「 悔い改めて 」ほしいということである。悔い改める・・・・向きを変えるということである。今まで神に背を向けて、神とのかかわりなしに生きていたその生きる向きを変える。神の方を向いて、神とかかわりを持ちながら生きる。それが悔い改めるということ。悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただくと、賜物として聖霊を受けることができる。ユダヤ人であっても異邦人であっても。イエス・キリストの名によって洗礼を授けるというのは、イエス・キリストの名代として洗礼を授けるということであり、そこで洗礼を授けるのは、イエス・キリストご自身であり、そのイエス・キリストが神からの賜物として聖霊を授けてくださるということである。

 ペトロはこのほかにも色々な話をした。一生懸命、説教をして、「 どうしたらよいのか 」との問いに明確に答えようとした。「 邪悪なこの時代から救われなさい 」(40節)。「 邪悪な 」・・・以前の聖書は「 曲がった時代 」と訳していた。その方が分かりやすい。悔い改めなければならないということは、罪に曲がった世界に生きていたということ。その曲がり具合は神の子イエスが地上に来てくださったときに、皆で寄ってたかって、このイエスを殺してしまったことにはっきりと現れた。その曲がった生き方から出てこないといけない。出てきて、神の方を向いて生きようと言うのである。ペトロのすすめを受け入れた人たちが、その日のうちに3000人ほど洗礼を受けた。洗礼を受けるというのは、41節の言葉で言うと、仲間になるということでもある。教会の仲間になる。信仰というのは、自分が神とつながって生きればそれでよいのであって、同じ信仰の仲間と一緒に生きるのは、時として面倒なこともあるから、私はひとりで神を信じてやって行く・・・・。これは聖書の定めた救いの道とは違う。聖書が言う「 救われる 」というのは、まず神とつながること、そして同時に、同じように神を信じている仲間ともつながることである。神の救いの約束は故人にではなく、教会に与えられているもの。神を信じて、教会の仲間入りをするときに、はじめて教会に与えられている救いが、その人にも及ぶ、それが聖書の定めた救いの道である。仲間が一緒に生きている姿は様々である。仮に教会に来られない仲間がいたとしても、教会の仲間の方からその人を訪ね、かかわりを持ち続けるということもある。仲間と離れて、ひとりで信じていくというのは、聖書が定めて救いの道ではないのである。

そうやって教会が誕生し、仲間が与えられたとき、そこに教会の仲間たちと共に生きる生活が始まった。その生活は「 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった 」(42節)というもの。そして43節以下には、これらのことがより具体的に書かれているのである。これらの4つの行為の根底にあるものは、「 主と共に生きる 」ということ。私たちは生活のいろいろな場面で、いろいろな出来事に遭遇しながら、イエス・キリストだったらこういう時、どうなさるだろうかと考える。そして主に倣おうとする。それが主と共に生きている者の具体的な姿である。そうして行くためには、仲間が一緒に集まり、主の教えを学び、互いにて語り合う交わりを持つことが必要だし、「 主よ、どうすれば良いのか、私たちにお示しください 」と、互いにとりなし、祈ることも必要だ。聖餐に与ることによって、主が共にいてくださるとの約束を思い起こすことも大切。そうやって教会の人間は、主と共に生きる、主の方を向いて生きるのである。

そのような生き方をし始めた集団が、民衆全体から好意を持たれたと言う。彼らはとりわけ、人々に対して好意的に接したから、好意を持たれたというのではない。一生懸命に、神を賛美し、神に祈り、生きている。互いに支えあって、神に顔を向けて生きている。それに人々は好意を抱いたのである。神に向いて生きている姿が人々の好意につながったのである。真に好ましい「 新しい人間の姿 」、「 信仰に生きる人間の姿 」を感じたからなのであろう。「 こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである 」(47節)。主は彼らの「 教会の人間として生きる姿 」を用いて、救われる人々を仲間に加えてくださった。主ご自身がそれをしてくださったのだと喜んで使徒言行録は報告する。 (2013年10月6日)