2013年10月22日火曜日


先週の説教要旨 「 主があなたの家族となって 」 マルコ3章31節~35節 
 『 そして父になる 』という小説を読んだ。6年間、自分の子どもだと思って育ててきた子どもが、実は自分の子どもではなかったと分かった。そのとき、あなただったら、どうするか・・・「 家族とは何か 」ということを深く考えさせられる小説だ。結局、家族というのは血のつながりなのか、一緒に過ごした時間なのか、それに対する明確な答えは提示されない。ただ、家族というのは血のつながりだけで割り切れるような簡単なものではなくて、一緒に過ごすという関わりも、とても大きな意味を持っているのではないかと読者に訴えかける内容だった。小説のタイトルが「 そして、父になる 」となっているように、誰でも自然に父になれる。母になれる。家族になれる。そういうものではない。家族になるというのは、一緒に過ごす時間がとても重要、もっと丁寧に言えば、悲しみや喜び、怒りと言った感情を共有しながら生きる、そのことを意識して努力して行く。そのとき、家族は真に家族になるのではないか、そう訴えているように思われた。私は牧師という務め柄、時々、耳にしてきたことがある。愛する者が病で倒れ、その看護の日々を通して、自分たちは初めて夫婦としての本当の時を過ごすことができましたという言葉を・・・。それまでは、同じ家族でありながら、それぞれに別々の道を歩んで来てしまった。家族というよりも、まるで同居人のような家族だった。でも、この病気を通して、相手に仕え、共に語り、共に涙し、本当の家族としての大切な時を、一緒に過ごすことができました。そういう言葉を何度か、耳にした。

今朝の聖書の言葉も、家族というものを考えさせてくれる箇所である。イエス様は、周りに座っている人々を見回して「 見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ 」と言われた。外に立っている肉親の母、兄弟たちではなく、ご自分の周りに座っている人たちをこそ指して「 わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ 」、つまり、「 わたしの家族だ 」と言われたのである。このとき、周りに座っていた人たちと言うのは、イエス様の話、すなわち神の言葉を聞こうとそこに座っていたのである。だからここで「 神の御心を行なう 」と言われているのは、まず何よりも神の言葉を聞くということなる。周りにいた人たちは意識的にイエス様から神の言葉を聞こうと、時間を割いてここに集まっていた人たちなのである。私たちも毎週、ここに集まり、神の言葉を聞くということから一週間の生活を始める。それはすでに神の御心を行なっているということなのであり、ここにいる私たちは皆、神の家族なのである。私たちが今日、ここで偲んでいる方々も神を礼拝する生活をしてきた人たちたから、彼らもまた神の家族の一員なのである。私が神学生のとき、父は他界した。父の葬儀はキリスト教式で行なった。実家近くの教会の牧師が、それまで面識はなかったにもかかわらず、引き受けてくれたのである。その牧師は、ご迷惑をおかけして申しわけないと頭を下げる私に「 私たちは同じ神様を礼拝している神の家族なんだから、そんなこと、気にしないでください 」と言ってくださった。忘れえぬ体験となった。

先ほど、家族というのは「 一緒に時を過ごしていくことによって本当の家族になって行くものではないか 」と言った。先週の火曜日、川田さんご夫妻を尋ねたが、ご主人はご病気の奥様の最後を自宅で看取る。病院に入院させるのではなく、自分たち家族で最後のお世話をすると決心された。家族というのは、死に向かう病の床においても、なお、最後の最後まで共に時を過ごしてくれる存在なのだと思う。たとえ、自宅で最後を看取ることができず、病院に託すことになったとしても、自分たちの手で最後を看取りたいと願う家族の心は変わることなく、あるのだと思う。かつて筋萎縮性側索硬化症という難病との闘いを経て、天へと凱旋された方がいた。奥様がキリスト者で、ご本人も病床で洗礼を受けられた。その最後は本当に厳しいものであったが、ご家族は最後の最後までその方と共に時間を過ごし、感情を共有することにすべてを捧げてられていた。これもまた、忘れえぬ体験となった。

神の言葉を聞いて生きようとしている私たちは皆、神の家族である。先に召された信仰の仲間たちも皆、神の家族。イエス様もそういう私たちの家族のひとりとなってくださっている。イエス様が、私たちの家族となって、誰よりも身近な兄弟として、私たちと共に時間を過ごしてくださっている、私たちの労苦を共に担っていてくださるのである。私たちが愛する家族のために、病床で仕えていたあのとき、イエス様もまた私たちの傍らにいて、家族の一員として私たちの愛する者に、一緒に仕えていてくださったのである。ここにお集まりの方々の中には、愛する者の最後を一所懸命に、看取られた方々がおられる。そのとき、実はイエス様もあなたの家族のひとりとなって、その労苦を担っていてくださったのだ。そして、あなたが愛する者の看取りをなし終えたときに、「 これから先は私ひとりですることだからね。後は私に委ねていいのだよ 」と言って、私たちの愛する者をその手にしっかりと引き受けてくださったのである・・・。イエス様は家族のひとりとして、昨日も、今日も、明日も、ずっと私たちと一緒にいて、家族としての働きをし続けてくださっている。そこに私たちの望みのすべてがある。 (2013年10月13日)