2013年9月23日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月23日~9月29日

9月23日(月)エフェソの信徒への手紙 4章1節~3節
 異邦人、ユダヤ人が共に集うエフェソの教会に一致を保つようにと勧めるパウロ(3節)。一致ということをまったく同じ考えになる、同じことをするようになると考えてはなりません。一致するとは、互いの違いを認めて、受け入れ合い、補い合うということです。そのような一致の心を妨げる最たるものは、高ぶりです(2節)。他の人を自分より低く見ることです。そうではなく反対に自分が低くなることが大切です。低い心は柔和、寛容となってあらわれます(2節)。そして当然、低い心には愛があります(2節)。愛は他者を受け入れる場を作り、一致が生れます。しかし、一致のためには忍耐が必要です(2節)。これは、他者の弱さに我慢をしてあげるというのではなく、他者を受け入れられない自分の弱さに忍耐するということです。他者に責任の目を向けるのではなく、自分に向けないとうまくはいきませんね。

9月24日(火)エフェソの信徒への手紙 4章4節~6節
 この箇所には「 一つ 」と言う言葉が何回も出てきます。すべてのものがただ一点に集約されていく深みがあります。恵みの源である父なる神様からの恵みが、一本の糸を引くように流れて行き、キリストのからだなる教会を造っている。その教会を生かすのも御霊ただ一つです。一つになるという神様からの召しの目的( 1節~3節 )から目をそらしてしまう私たちの目を、一点に釘付けるように迫ってきます。唯一の源であるお方を前にして、私たちは高ぶることなどできなくなりますね。一致の歩みは絶えず、ことある毎に、この方の前に戻って来ることから始まります。

9月25日(水)エフェソの信徒への手紙 4章7節~13節
 一つになろうと語ったパウロ。一つとは、皆が同じになることではありません。だから、パウロは、キリストの賜物のはかりにしたがって一人一人に恵みが与えられている(7節)と言うのです。一人一人が違っているのです。信仰に生きるとは、キリストの賜物のはかり( キリストがそれぞれにふさわしく賜物を与えておられるということ )によってはかることを知ることです。自分は受けたものが少ないなどと不服を言うことはできません。私たちが自分のはかりではかって窮々としているところにキリストが降りて来られて恵みのはかりをもって私たちを計ってくださった(9節)。そして、私たちを引き連れて高く上がり、私たち一人一人を教会の務めに就かせてくださった。教会において、神に仕える者にしてくださったのです。教会はまさに、本当の自分を、自分らしく生きられるところなのです。

9月26日(木)エフェソの信徒への手紙 4章14節~16節
  わたしたちはもはや未熟な者ではない 」(14節)。成熟とは「 キリストの賜物のはかり 」という自分をはかるものさしを一人一人がきちんと持っていることを意味します。そこでは、一致が生れています。少しでも自分が賢くなると、周りの人が未熟で愚かに見えて、こういう未熟な人と一緒にやって行くのは大変だと考えるのは未熟な人間のすることです。成熟すればするほど、人と一緒に成長する心を知るようになるものです。人の成熟の度合いは、そこでこそ計られます。教会がどんなに大きくなっても、教会の交わりの中にそのような成熟がもたらすキリストのお姿が見えて来るようでなければ、未熟な教会を造っていることになります。

9月27日(金)エフェソの信徒への手紙 4章17節~24節
  もはや異邦人と同じように歩んではなりません 」(17節)。ここでの異邦人は神を信じていない者たちという意味です。彼らは無感覚になって放縦な生活をしているとパウロは語ります(19節)。神を信じる私たちも以前はそうだった。そのような放縦な生き方を知っていた。その生き方には魅力があった。自分の好き勝手な生活ができるのは、それはそれでどこか満たされるような錯覚を感じるのです。それでもって一時の満足を得たとしても、そのような生き方の行き着く先は滅びです(22節)。キリストを学んだということは(20節)、真の人間として歩んで下さったキリストの姿から、神に造られた真の人間の歩みがどのようなものであるかを学んだということなのです。だから古い人間を脱ぎ捨て、新しい人間を着よう(22節、24節)とパウロは勧めます。しかも、強く勧めているのです(17節)。

9月28日(土)エフェソの信徒への手紙 4章25節~5章5節(Ⅰ)
 キリスト者の生活とは何かを集中して語っている聖書全巻の中でもとても貴重な箇所です。モーセの十戒を背景にしているとも言われます。たとえば、偽わるは(25節)十戒の偽証に、怒るは(26節)殺すに、盗むは(28節)は盗むに、卑わいな言葉は(5章4節)姦淫に、貪欲(5章5節)は貪りに相当すると言うのです。そのような歩みは神の聖霊を悲しませるだけです(30節)。私たちのうちに同居しておられる神の聖霊は、私たちがそのような歩みをする時に悲しんで、涙を流されるのです(30節)。私の救いを保証しておられる方が涙を流す。これは、真剣に考えないといけないことですね。

9月29日(日)エフェソの信徒への手紙 4章25節~5章5節(Ⅱ)
 「 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい 」(2節)。ファミレスで喫煙席に案内されてしまうと、洋服にタバコの匂いがしみついてしまいます。回りの人が皆、タバコを吸っているからです。私たちがキリストのもとにいつも立ち帰っていると、キリストの愛の香りが私たちにしみ込んで、私たちがキリストの愛の香りを放つようになります。