2013年9月23日月曜日


先週の説教要旨 「 主よ、お示しください 」 使徒言行録1章12節~26節
 今朝の箇所には、イエス様から約束の聖霊を待つように言われた弟子たちが、待つ間にユダの裏切りによって生じた1名の欠員を補充し、使徒12人という体制を整えたことが記されている。12という数は、イスラエル民族の12部族に対応するもので、キリストの弟子が12人というのは先祖アブラハムへの神の約束が12弟子を中核として造られる教会に引き継かせれていることを示していると言われる。だから弟子たちにとって、使徒12人かちゃんと揃っていることは重要なことであったとされる。そのような理由から、多くの聖書学者は弟子たちが欠員の使徒を補充したことを正しい判断であったと理解している。だが、本当に欠けた使徒を補充する必要があったのだろうか・・・。実際、12人使徒に欠員が生じたときにそれを補充したのはここが最初で最後であって、12章でヤコブが殉教したときは補充されていないし、ここで使徒に選ばれたマティアは、このあと一度も聖書に登場していない、そのことも気になる。数を合わせるためだけならば、使徒を補充する必要が本当にあったのだろうかと思わされる。決定的なのはイエス様ご自身が使徒の補充をお命じになったという事が記されていない点。イエス様は12人の弟子たちを選ばれたとき、徹夜の祈りをして、「 これは 」と思う12人をお選びになった。肝いりの12人。もし本当に欠員補充が必要だとイエス様が考えておられたら、昇天されるまでの40日の間に補充を命じられていてもおかしくはなかったはず。

 それではなぜ、弟子たちは欠員補充へと動いたのか。ペトロは欠員補充の必要性を旧約聖書の詩編69編25節と109編8節を引用して説明している(17節から20節)。詩編109編は、神に敵対する者に対して呪いの言葉を数々浴びせ、彼の今ある地位が誰かに取って代わられるようにと願っている詩編である。ペトロはこの敵をユダを預言しているものと理解し、「 その務めはほかの人が引き受けるがよい 」という詩編の言葉に従って、自分たちも欠員を補充しようと言う。しかし自分の正しさを誇り、敵を憎悪する詩編を根拠に欠員を補充し、教会のスタートをはかることは、敵をも愛しなさいと教えられたイエス様の愛を証しする役割を担う教会のスタートに本当にふさわしいことなのかだろうか。ペトロたちもユダのように、一度はイエス様を見捨てたのではなかったか・・・・。この詩編のいようには少し無理を感じるのである。それらのことを考えると、使徒たちの心の中にどうしても欠員を補充したいという強い思いがまずあって、その思いがペトロをして、このような詩編の解釈・引用を強いてしまったのではないかと思えてならないのである。12という数字の重みを知っているユダヤ人にとって、11名というのはいかにも不安定な状態、欠けた状態である。使徒たちには、その不安定な欠けた状態から脱したいという思いが強く働いていたのではないだろうか。私たち人間には、安定を求める心が強く働くもの。欠けがある、足りないという状態は人間にとって好ましく思えないのである。だが、聖書の信仰とはそういう人間的不安定、不足の中でこそ真価を発揮するもの、神の力が現れ出るものなのではないか。そうとすれば、1名欠員という不安定な中に留まり続け、そこで聖霊を待つということでも良かったのではないか。イエス様は12人の弟子を選ばれたとき、その中に裏切り者のユダを入れておられた。それは驚くべき事だがイエス様の弟子集団はその最初から痛みを、欠けを内包しつつ始まったのである。いや、欠けを排除せず、内包しつつ歩むのが主の弟子集団なのであり、それは最初から最後まで変わってはならないことなのである。だから欠員のままスタートしても良かったのではないかと思うのである。むしろ11人しかいないという、その空席を見るたびに、神を裏切る人の罪を、そしてその罪を赦すキリストの愛を覚えつつ、教会はスタートしても良かったと。そこに神の御心があったのではないかと思えてならないのである。

ペトロたちは空席を埋めることをもってスターとしようと考えた。それは欠けを嫌い、不足した状態を不安定と考える人間の性がもたらしたものと言っても良いのかも知れない。私たちにも同じような、欠けを嫌い、不足をそのまま不足として受け入れようとはしない思いが働く。いろいろな点で・・・・。だが、そのような不足、空席を埋める役割を担っているのは聖霊なのではないか。使徒の欠員、私たちの様々な欠け、不足、穴が開いた状態を埋めるのは、私たちの知恵や力ではなく、約束の聖霊なのであって、約束の聖霊こそが穴を埋め、そこが神が働かれる場所となる。そうやって私たちに本当の意味で安定を与えてくださるのではないか・・・。考えてみると、イエス様がベツレヘムでお生まれになったとき、人々は生まれてくる余地を与えなかった。それで主は家畜小屋でお生まれにならねばならなかった。しかし主は締め出されながらも生まれてくださった。聖霊も、その降臨する場所を埋められてしまったのかも知れない。それでも、クリスマス同様、聖霊は降臨される、あのペンテコステの日に。私たちの欠け、弱さを覆うようにして・・・。私たちは安定、平安を求めるがゆえに、欠け、不足を忌み嫌い、それを排除しようとする。だが、それを抱えたままに、そこが神の働かれる場となることを信じて進んで良いのである。主よ、お示しください、あなたの恵みを。(2013年9月15日)