2013年9月30日月曜日


先週の説教要旨 「 皆が聖霊に満たされ 」 使徒言行録2章1節~21節
  イエス様が約束された聖霊が降られるのを待ち続けていた弟子たちに、いよいよその時が訪れた。それは五旬祭の日に起きた。五旬祭は、ギリシャ語ではペンテコステ、50日という意味。旧約聖書を読むと、この五旬祭という祭りは、「 刈り入れの祭り 」あるいは「 7週祭 」と、別の名前で語られていることが多い。つまり小麦などの刈り入れ、初穂を祝おう祭りである。ユダヤの人は過越の祭り、仮庵の祭り、刈り入れの祭りと、3つの大きな祭りをした。その日には、地方からエルサレムの都に巡礼に来る人たちが多かったと言われる。ちょうどその日、弟子たちはいつもと同じように、ひとつの部屋に集まって、ひとつの思いになって祈っていた。すると、突然、激しい風が吹いて来るような音がした。そして炎のような舌がひとりひとりの上に現れて燃え上がった。神の霊が降ったのだ。それは、「 一同が一つになって集まっていた 」時に起きた。使徒言行録1章~2章では、聖霊を待つ弟子たちが一つになっていたことを繰り返して語っている。一致である。それはどのような一致であったのか。それは空っぽである、ということにおいて一致していたのである。弟子たちの中には、ペトロのように他の弟子が見捨てても私は捨てないと、自分と他の弟子との違いを強く意識していた者もいた。またヤコブヤヨハネのように、他の仲間を出し抜いて出席を願い出る者もいた。自己主張の強い自信家や野心を抱いている者がいたのだから、一致することは簡単ではなかったであろう。その彼らが一つになっていた・・・。彼らの全人格における己の貧しさ、自分たちは何者でもない、また何も持っていない、というゼロにおいて一致していたのだ。彼らは十字架の出来事を通して、自分を頼りにしたり、誇りにしたりできない人間であることを知らされました。そういう意味で、彼らは空になった。神の赦し、聖霊の助け、それを必要としている者であることを痛切に感じていた。皆が、ひとりの例外もなく。まさにその点において、彼らは一つになっていた。だからこそ、彼らは聖霊で満たされるということが起きたのである。聖霊の満たしは神からの一方的な恵みの出来事だが、もし人間がそれに貢献したと言い得るならば、それは彼らが空であったということである。聖霊にとって、人間の中に降るということは決して簡単なことではない。なぜなら、私たちの中は既に一杯になっているから。私たちは必ずしも空ではない。私たちは依然として満ちている。私の知恵で、私の善良さ、私の誠実さ、私の強さ、私のプライド・・・そういったもので一杯なのである。弟子たちは、それらのものが打ち砕かれ、自分が空になってしまうという体験をした。自分の無力さ、限界を思い知らされる時、それは空であることを知る時だが、しかし聖霊の時でもあるのだ。神の業が始まるときでもあるのである。

空になって、ひたすら聖霊が与えられることを祈り、待った弟子たち。神の霊は、受ける準備のあるところには、必ず満ちてくださる。そこに教会の誕生日だとも言われる聖霊降臨の出来事が起きた。この日、教会は外に向かって言葉を語り始めた。今まで、ひたすら祈りに集中し、神の方を向いていた弟子たちが、外に目を向け、外に向かって語り出した。これをもって教会の誕生と言う。聖霊を受けて、聖霊の力によって、外に向かって語るべき言葉を語る、そこに教会がある。弟子たちが語る言葉を聞いた人々はあっけにとられた。なぜなら、彼らは自分の国の言葉で弟子たちが話しているのを耳にしたから。彼らの多くは巡礼者であり、普段外国の言葉を使っていた。ヘブライ語を話すのは巡礼のときぐらいである。なのに、まさかエルサレムで外国の言葉を耳にするとは・・・。ここに出てくる地名パルティア、メディヤ、エラム・・・・は、当時、ユダヤの人たちが知っていた全世界である。これは、教会が全世界に向かって語るべきその言葉を語り始めたということなのだ。

 ある人たちは、弟子たちを酔っ払っているのだと考えた。そこでペトロが11人と共に立って語り始めた。ここで語り始めているペトロの説教が、この後、教会が地の果てまで、世界の果てまで語るべきことは何であるか、その語るべき内容をすでに明確にしている。まずその第一は、自分たちは酒に酔っているのではなく、預言者ヨエルの預言が実現したのであって、ユダヤ人だけが救われるのではなく、「 主の名を呼ぶ者は異邦人であっても皆、救われる 」という「 終わりの時 」が始まったのだと言うこと。その時が始まったことは、聖霊の注ぎによって明らかであると。第二は、「 あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです 」(36節)ということ。キリストの十字架と復活、それはあなたの救いのために、神がなさったことだと言うこと。教会が語り続ける言葉、全世界に向けて語り続ける言葉は、そのことに尽きるのである。十字架を見て、ここにあなたの罪がある。あなたの罪はこの十字架において、キリスト共に死んだのだ。そして、キリストが復活なさったように、あなたも信じる時、このキリストのように、神とつながった新しい命に生きるようなるのだ・・・。教会はいつでも、どこでも語り続ける。そのことだけを。なかなか聞いてもらえない言葉だが、教会はそのことに全力を尽くす。先日天に召された水谷姉の歩みは、まさに周りの人たちにそれを物語る歩みそのものであったと思う。   (2013年9月22日)