2013年9月17日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月16日~9月22日

9月16日(月)エフェソの信徒への手紙 2章1節~10節(Ⅰ)
あなたがたは以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです 」(1節)。パウロは、救われる前と救われた後の、はっきりと色分けされるような信仰者の変化を語っています。私たちは救いの前後で自分が変わったと感じているでしょうか。そういう変化を感じられなくなる原因のひとつは、救われる前の自分が「 生れながら神の怒りを受けるべき者でした 」(3節)と言うことを真剣に、謙遜になって理解しようとしないことにあります。神様の怒りは、私たちへの期待から来ています。期待した通りに生きていない者を神様はどうでもよいと放っておくのでなく、きちんと叱るのです。神の怒りを軽く考えないようにしましょう。

9月17日(火)エフェソの信徒への手紙 2章1節~10節(Ⅱ)
 パウロは、救われる前と救われた後の変化について語ります。その変化とは、心の一番深いところで私たちはどちらを向いて生きているか?と言うことです。パウロが言う「 善い業のためにキリスト・イエスにおいて造られた 」(10節)の「 善い業 」とは、生き方の根本において、神様の方を向いて生きていることを言うのです。日常生活の中のひとコマ、ひとコマを取上げて、あれは善い業、これは悪い業と言うのではありません。根本において神の方を向いて生きる姿勢を言うのです。もともと人間は、神の方を向いて生きるように造られたのですが、そこから反対に歩み始めてしまったのです。私たちは、信仰によって、神の賜物によって(8節)、生きる向きそのものが変えられた。そのことは、はっきりと感じられるでしょう。

9月18日(水)エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節(Ⅰ)
 エフェソの教会では、異邦人もユダヤ人も一緒になって教会を造っていました。以前、両者の間には深い溝があり、ユダヤ人は自分たちは選ばれた民族という誇りから異邦人を見下していたし、異邦人はキリストを殺したユダヤ人はけしからん人間だと思っていました。しかし両者を隔てていたそのような壁は壊されてしまった。そのことを心に留めてほしいと(1節)言うのです。人間は一緒にいると、いつも自分と人を比べて、優越感を持ったり、劣等感を持ったりします。優越感が自分に生き甲斐を与えたり、劣等感が惨めさを与えたり、かえって負けるものかと敵愾心を生んだりと・・・。そういうことが私たちの生活を支配します。しかし、それは自分で壁を作っていることと同じです。そのような壁をキリストは壊されたのです。

9月19日(木)エフェソの信徒への手紙 2章11節~22節(Ⅱ)
 「 あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています 」(19節~20節)。使徒や預言者とは神の言葉を語る務めを負った者でした。すなわち、教会の土台は神の言葉だとパウロは言うのです。教会において、神の言葉がきちんと聞こえるかどうか、それによって教会は立ちもするし、倒れもします。神の言葉を語る務めを負う牧師は重大な責任を負っています。自分の言葉の弱さを覚えつつも、神によりすがるようにして、今日も御言葉を語り続けるすべての牧師のために祈りましょう。

9月20日(金)エフェソの信徒への手紙 3章1節~13節(Ⅰ)
キリスト・イエスの囚人となっているパウロ(1節)。この手紙は獄中書簡と呼ばれ、パウロがキリストの福音に仕える(7節)ゆえに投獄されている時に書いた手紙と言われています。まさに囚人だったのです。同じ獄中で書かれたと言われるフィリピの手紙では、「 明日には殺されるかも知れない 」という切迫感が感じられます。そのような緊迫した状況の中で、パウロは私は人間の囚人ではなく、キリストの囚人なのだとユーモアを込めて言うのです。「 キリスト教と笑い 」という本で宮田光雄先生は、ユーモアとは神を信頼する者が苦境の中で見せる余裕だと言っています。私たちも、つまらぬジョークではなく、ユーモアをもって生きられますよ。

9月21日(土)エフェソの信徒への手紙 3章1節~13節(Ⅱ)
 「 だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください 」(13節)。このパウロの言葉には信仰の急所が表れています。私たちは苦難に遭い落胆すると、信じることにおいてあきらめが出てきます。しかし、パウロは違います。どんな状況にあってもあきらめないのです。なぜでしょうか。12節で「 わたしたちは主キリストに結ばれており 」と彼は言います。キリストの存在は神が私たちを愛しておられることの最高の証しです。だからキリストに結ばれているとは、神の愛から引き離されない(ローマ8章38節~39節)と言うことです。パウロはすべての事を神の愛の中で起きていると見ています。それが急所です。

9月22日(日)エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節
 「 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように 」(18節~19節)。パウロはキリストの愛を広さ、長さ、高さ、深さと4つの計りで測っています。普通、ものの大きさを測るには縦・横・高さと言った具合に3つでいいのです。しかし、パウロはそこに広さを加える。そうです。パウロはキリストの愛を外側から測っているのではなくて、内側から測っているのです。だから「 広さ 」という概念が出るのです。キリストの愛のただ中に立って、キリストの愛に包まれて立っている。パウロのようにあなたも同じところに立っているのですよ。キリストさの愛の中に包まれて立っているのです。