2013年9月17日火曜日


先週の説教要旨 「 わたしの証人 」 使徒言行録1章6節~11節

よみがえられたイエ様スが弟子たちの離れ去って行かれるとき、イエス様は弟子たちに「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる 」という約束の言葉を残された。証人、それはどんな場合にも非常に重要である。裁判においては、その人の証言が人を救ったり、罪に定めたりするからである。証人はあくまでも見た通りのこと、聞いたままのことを、ありのままに証言しなければならない。もし証人が真実なことを証言するならば、それはその人を本当に生かすことになる。証人になるとは、そういうことを意味している。

主の召天の際、使徒たちは集まって、「 主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか 」と尋ねた。弟子たちの発言は、彼らの関心があくまでもイスラエルという国に限定されていることを示している。自分たちの身の回りの狭い世界のことだけに彼らの関心は向いていた。しかしそういう弟子たちにイエス様が託されたことは「 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる 」ということであった。ユダヤとサマリアは激しい対立関係にあった。その2つの対立する地域を覆って、あなたがたはわたしの復活の証人となるのだ、とイエス様は宣言されたのだ。対立する地域の中で、復活の主が「 どのような救い主であるか 」、証しする。そしてその証が受け入れられるとき、対立した地域には今までとは違う新しい第一歩が記されるのである。今日の世界でも様々なところに対立する地域がある。しかしそれを覆って主の復活の証人、キリストこそ平和であることの証人として、教会は立てられている。人々が憎しみ合い、殺し合うためではなく、互いを尊敬し、生かし合うようになるための証人として立てられているのである。しかし弟子たちは自分たちの身の回りの小さな世界のことだけに関心を抱いていた。私たちは信仰的視野の狭窄に陥っていないだろうか。使徒たちは聖霊を受ける祈りの生活から、彼らの思いをはるかに超えたスケールの「 神のドラマ 」の登場人物となるべく召された。それと同じように、私たちの生涯は自分が思っている以上に、神によってもっと豊かに、もっと大きく用いられるのではないか。小さな自分の世界のことにとどまらず、聖霊と祈りの導きの中で、自分の世界を大きく広げていただこう。神の大きなドラマの登場人物として働こう。教会は、11節にあるように、再び主が地上に来られる時まで、主を待ちながら、主の証人としての業に励む、そこに教会の使命がある。

 そのためにイエス様はひとつの約束を与えられた。「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける 」・・・この力はキリストを証するために与えられるもの。この「 力 」と訳されている言葉はデュナミス、ダイナマイトの語源になった言葉、爆発的な力である。だがそれは破壊的ではない。むしろ何かができるようになる力を意味する。文語訳の聖書は、これを「 能力 」と訳している。証言すべき時に、証言することができる力。証人となるべき場で証人となることができる力、そういう力ガ与えられると言うのである。ところで、この「 証人 」という言葉は、後に「 殉教者 」という言葉を生み出す語源となって行く。初代の教会においては、キリストを証言することと殉教することとはひとつに重なるような時代だったのである。私たちは殉教することができるであろうか・・・。「 できます 」とは言い難い。このことは、イエス・キリストの証人になるということは、どんなに尋常ならざる力、高いところからの力を必要とするかをよく示している。聖霊の力を神からいただくのでなければ、人間が持って生まれた力などでは到底なしえないことなのである。だからこそ、弟子たちは待たなければならないのだ。イエス・キリストと共に3年を過ごし、その力ある業を、素晴らしい教えを、つぶさに見聞きしてきた弟子たち、そして復活の主と共に40日を過ごした、誰もがうらやむような経験を重ねた弟子にして、なお、それで十分ではないのだ。「 主を知っていること 」と「 主を証言すること 」には、天地ほどの隔たりがあり、それを人間の力で埋めることはできないのである。それを埋められるのは聖霊の力だけなのである。 

木下順二氏が脚本化した「 巨匠 」という話がある。ポーランドのワルシャワでナチスに対する武装蜂起が起こる。俳優志願のある青年は仲間と共に林の奥の小学校に逃げ込む。そこに「 巨匠 」と呼ばれる老人がいて、俳優としての自分の過去を誇らしげに皆に語っていた。ところが秘密警察ゲシュタポが小学校を見つけ、見せしめとして5人の知識人を選んで処刑することになった。前市長、医師、ピアニストが次々と引っ張られたが、巨匠の経歴を見たゲシュタポは、「 なんだ、簿記係か 」と言って無視したのである。ところが老人はゲシュタポにかけ合って、マクベスの独白の場面を見事に演じ切るのである。彼は俳優であることが認められ、処刑組へと入れられた。彼は命をかけて自分が俳優であることを証し、その時、彼は本当に「 巨匠 」になったのである。彼は自分が一番したいこと、自分の誇りにかけてこれがしたいと思うことをしたのである。死は覚悟の上で。あなたの自分が一番したいことは何だろうか。わたしたちは主の証人なのである。2013年9月8日)