2013年9月10日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  9月9日~9月15日

9月9日(月)エフェソの信徒への手紙 1章1節~2節
  異邦人クリスチャンが多く集っていたエフェソの教会に手紙を書くパウロ。私たちが手紙を書く場合、その最初の部分は両者の関係を明確にあらわす内容となるのが普通でしょう。相手の安否を気遣ったり、親しみの言葉を述べたりと、そこには両者を結んでいる絆のようなものが自然にあらわれてくるものです。人間は、互いの信頼関係がなければその人の言葉を聞けないものですが、パウロとエフェソの教会の間の絆は、両者が共通にしっかりとつながっている人、キリスト・イエス( 救い主・イエスの意 )でした。この表現は2回出てきていますが「 あなたがたの救い主はイエスだね。私の救い主もイエスだ 」。そこにこそ、私たちの真実の絆があるねと確認しているのです。教会における私たちの人間関係もキリストをこそ絆としたものでなければ、ちょっとしたことで簡単に切れてしまいます。

9月10日(火)エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節(Ⅰ)
 3節から14節は、原文ギリシャ語では長いひとつの文になっていて、途切れていません。息つく暇もなくパウロの口から神の祝福への賛美が次々とあふれ出たのでしょう。ここには「 私たちはすでに祝福の中にある 」という祝福に対する明確な確信があらわれているのです。その祝福は、目に見える祝福というよりも天のあらゆる霊的な祝福であり、それはキリストにおいてすでに起こっており、信仰の目で見るならば明確にそこに見えてくる祝福です。その祝福とは「 私たちは永遠の神のご計画に根差した命に生きている 」と言うことです(4節~5節)。どこかの宗教のように先祖のたたりだとか、得体の知れないものに翻弄されて生きているのではありません。これは、私たちの不安の根源を根こそぎ取り除くほどの祝福です。

9月11日(水)エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節(Ⅱ)
 「 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです 」(10節)。来るべき大いなる日に、キリストによって世界はひとつにされるのです。それは神の永遠のご計画です。しかしその日を前に教会がすでにキリストによってひとつにされています。ひとつとされることを先取りしているのです。教会がキリストによってひとつにされているのは、やがて天にあるものも地にあるものもキリストによってひとつにされることのしるしです。エフェソの教会は異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンから成っていましたが、以前のユダヤ人からすると異邦人と同じ食卓につくなど考えられないことだったでしょう。私たちは、「 ひとつとされていること 」を大切にしよう。

9月12日(木)エフェソの信徒への手紙 1章3節~14節(Ⅲ)
 「 私たちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになる 」(14節)。贖うとは、それまで他の人のものであったものを買い取って自分のものにすることです。私たちは神のものではなく罪の存在であったとき、神を賛美することを知らなかった。神をほめたたえられないということは、罪の中にいることです。神の恵みは、神をほめたたえられなくなっている私たちの罪を、責めに責めて問いただして裁くというのではなく、御子を私たちのところに送ってくださって、十字架につけ、その血を流させることによって私たちを神のものとして買い取って下さった。神をほめたたえるのは、私たちが神のものとされているしるしです(詩34編2節)。

9月13日(金)エフェソの信徒への手紙 1章15節~16節
15節、「 こういうわけで 」と続けてからパウロはエフェソの人たちのとりなしの祈りへと進んでいきます。パウロは14節までに神様の救いの計画とそれを実行されたキリストの御業について語りました。そのことを受けて、とりなしの祈りへと進む。パウロがここでしていることは、エフェソの教会の人たち一人一人を神様の働きと結び付けて見ているのです。あの人の上にも、この人の上にも、神様の御手が置かれていて、キリストの御業が働いている、そういう人として相手を見ているのです。それは祈りの中でこそ、訓練され身に着く見方なのです。私たちも祈りの中で相手を受け止め直す訓練をしましょう。苦手な人に対しては、特にそうです。

9月14日(土)エフェソの信徒への手紙 1章17節~19節
 パウロはエフェソの教会の人たちのために祈ります。そのとりなし祈りの内容は何でしょう。もちろん、健康であるように、不幸が少しでも起きないように、試みに遭わないように、と祈るのは自然な事でしょう。しかしパウロの祈りは、人々の心の目が開かれる事です(18節)。心の目が開くとは、知恵と啓示の霊(17節)すなわち御霊が与えられることで、ますます神を深く知らせ、私たちに与えられている希望、受け継ぐべきもの、信仰者に働く神の絶大な力を確信できるように(18節~19節)なること。全てのとりなしの祈りの根底にあるべき祈りはこれです。

9月15日(日)エフェソの信徒への手紙 1章20節~22節
 エフェソ書はキリストの体である教会について多くを語ります( エフェソ書と双子の書簡と言われるコロサイ書は、教会のかしらなるキリストについて語ります )。キリストのからだである教会は、かしらなるキリストと深く結び付いています。ですから、すべてのものの上に座し、支配されるキリストの働きは、そのからだである教会を通してなされます。教会は、かしらであるキリストの思いの通りに動くのです。キリストの思いは、からだが動かないと外には見えてきません。私たちがいないと、キリストは手足がもがれる。それほどに私たちは重んじられているのです。