2013年9月10日火曜日


先週の説教要旨 「 エルサレムを離れず 」 使徒言行録1章1節~5節
  今朝の礼拝から使徒言行録を読む。使徒言行録ははじめの部分を読めば、これがルカ福音書の著者と同一人物によるものであり、ルカ福音書に続く第2巻であることがわかる。他の福音書を書いたマタイ、マルコ、ヨハネは、イエス様のご生涯を記した福音書だけを書いて、それに続く第2巻を書かなかった。ルカだけが第2巻を書いた。通常、2巻からなる書物は両巻を貫いた主題がある。ルカの場合、それは何なのか。「 イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました 」とあるように、第1巻を書いた目的が「 イエス様が始められた行いと教えを記すこと 」にあった。しかし、その働きはイエス様の昇天後もまだ終わっていないとルカは考えたのだ。だから第2巻を書く必要がある。イエス様は天に昇られた後も、教会という群れを通して、今もその働きを続けておられるのである。だから使徒言行録という名称は、より正確に言うならば、「 イエス・キリストがご自身の霊である聖霊において、使徒たち、信仰者たちを通してなされた行いと言葉の記録 」ということになるだろう。この書は、テオフィロに献呈された書物である。ルカ福音書では「 敬愛するテオフィロさま 」となっていたが、使徒言行録ではそういうよそよそしい表現はなくなっている。それは福音書を読んだテオフィロがすでに信仰を持ち、教会の仲間になっていたからだと考えられている。そうとすれば、ルカはテオフィロに「 あなたは信仰を持ち、教会の一員になりましたね。教会の一員になったあなたは、これからはこういう生き方をするのですよ。どうぞ、そのことがよく分かるためにこの第2巻を読んでください 」、そういう思いを込めて第2巻を献呈したに違いない。私たちは「 自分が何者であるか 」が分かったとき、そこで初めてブレない、一貫した生き方をするようになるのである。自分が何者か、分からないところでは生き方もまた定まらない。しかし主を信じ、教会の一員になった者はイエス様のお働きを引き継ぎ、それを成し遂げるために生きる。そこに一貫した生き方を見出すようになる・・・ルカはテオフィロにだけではなく、この書を読み始める私たちにも同じように呼びかけているのである。使徒言行録は第28章まであるが、その終わり方は不自然で物語が完結していないと多くの人が指摘している。そしてそれは、第29章以降の物語として私たち自身の教会の歩みをそこに付け加えられるようにしているためであると・・・。なるほどと思う。私たちがどのよう聖霊に導かれて、イエス様の働きを引き継ぎ、この地上に成すか、使徒言行録の物語は、今も私たちの教会に於いて、現代の教会に於いて続いているのである。
 教会が引き継ぐ「 イエス様が始められた行いと教え 」、具体的にはどういう働きなのだろうか。イエス様の行い・・・ルカ福音書には、他の福音書にはない著しい特色があった。イエス様が湖の上を歩かれたとか、いちじくの木を呪ったら枯れてしまったとか、そういう自然界を巻き込んだ奇跡は書かれていない。むしろルカが好んで書いたのは、弱い人たちを救うイエス様の奇跡。ナインの村の一人息子を失ったやもめを憐れんで、死んだ息子を生き返らせた。18年も病の霊にとりつかれて腰の曲がった女の人を安息日であっても癒した。サマリア人を含んだ重い皮膚病を患っている10人の患者を清めた。そのようにルカ福音書におけるイエス様の行いは、弱った人、苦しむ人を助けるという点に焦点があてられていた。教えの面では、神様はどういうお方か、特に罪人に対する愛と憐れみに満ちた方であるということが際立ってしめされていた。放蕩息子のたとえ、イエス様の足を涙で濡らした罪深い女の物語、徴税人ザアカイの救い、悔い改めた十字架上・・・。教会は、そういうイエス様の行いを引き継ぎ、弱った人、苦しむ人の隣人となり、神様がどういう方であるかを紹介して行く、そのことに生きるのである。現代において、弱った人、苦しむ人と言えば、すぐに高齢者の方々を思うことだろう。現代は若者が教会に集まらず、高齢者の占める割合が高い教会が圧倒的に多い。だが、若者が集まるようにと、奇をてらう何かをする必要はない。主の働きを引き継ぐことに集中すればいいと信じる。高齢者が喜んで教会に来ていれば、その教会は必ず若者も喜べる教会になっているはず。高齢者も若者も同じ人間としての悩みを持つのだから。
 教会はその働きを自分たちの力でするのではない。「 エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである 」。使徒たちはイエス様の行いを見、また教えを聞いてきた。苦難を共にし、十字架の死に立会い、復活したイエス様にも出会う体験もした。ここに「 救い主がおられる 」と大声で叫べる根拠を十分に持っていた。しかし「 だから出て行け 」とは言われなかった。約束の聖霊を待てと。福音に関しては「 知っているということ 」と「 知っていることを証言すること 」との間に無限の距離がある。教会はそもそも伝道する実力など、持っていない。聖霊を待ちつつ、聖霊の力を受け取りつつ、伝道できるだけなのである。だからエルサレムを離れるなと言う。イエス様が拒絶されたその場所がイエス様についての新たな証言が始まる場所とされるのだ。      2013年9月1日)