2013年9月1日日曜日


先週の説教要旨 「 絶えず宮にいて 」ルカ24章50節~53節
   イエス様の昇天の場面。とっても印象的なのは、弟子たちが喜びにあふれていたことである。本来、これは別れの場面。通常、別れは悲しみが伴うもの。弟子たちにとっては、これでイエス様が本当に見えなくなってしまうのだ。困難な信仰の課題が始まるように思える。彼らは狼の群れの中に紛れ込んだ羊のようになるのである。にもかかわらず、弟子たちは大きな喜びにあふれている。弟子たちは、もうこれでイエス様を見ることができなくなる。私たちもイエス様を見ることはできない。その意味では、弟子たちは私たちと同じところに立ったのである。しかし喜びにあふれている。言い換えると、弟子たちのその喜びは私たちも同じように与ることのできる喜びなのだと言うこと。その喜びはいかなる喜びであって、何を根拠としているのか、ルカ福音書を読み終える締めくくりとしてそのことを心に留めたい。

別れの場面というのは、相手の姿を見るのはこれが最後だと思って、一生懸命その姿を心に焼き付けようとするもの。弟子たちに深く心に焼き付けられたイエス様のお姿は、手を挙げて祝福しながら天に上げられて行くお姿だった。自分たちを祝福しながら天に上げられるお姿・・・。イエス様の祝福に応えて、弟子たちはイエス様を伏し拝んだのち、エルサレムに帰り絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。祝福する、ほめたたえる、これらの言葉は原文ギリシャ語では同じ言葉で、「 よいことを言う 」、となっている。イエス様が人間に向かって、よいことを言うときには祝福となる。人間がイエス様に向かって、よいことを言うときには賛美となる。互いによいことを言い合っている。深い交わり、絆を感じさせられる。地上のいかなるものをもってしてもイエス様によって示された神の祝福から私たちを引き離すことはできない。神の祝福・・・私たちの礼拝は、最後に祝福で終わる。主が与えてくださる祝福が告げられる。礼拝堂を出て帰っていくこの世の生活は、なお涙あり、苦しみあり、疑いあり、不安あり、怒りあり、単純にいつも楽しく生きていけるわけではない。簡単に喜びをもって受け入れられるわけではない。聖書を学ぶことで知る正義感や愛の理解からすれば、疑問ばかりということになり、かえって受け入れがたく、厭世的にさえなると思う。逃避したくなる。しかし私たちは主の祝福を知っています。復活の主の祝福を受けているのである。オリエンテーションという言葉がある。何かの集会などをするときに、その集会全体を方向づけ、目的にいたるための具体的な道筋を示すために行なうもの。オリエンテーション、もともとはラテン語の「 オリエンス 」、「 昇る 」という言葉から生まれた。太陽は東から昇る。そこから、東という意味も持つようになった。教会は古来の伝統として、「 東 」に向けて会堂を建てることを大切にしてきた。なぜかと言うと、イエス様は明け方早くに復活された。あたかも、陽が昇るように・・・。それで私たちの信仰生活は、この復活の主によって方向づけられ、進むべき道筋も与えられている、そういう信仰を言い表そうと、会堂を東に向けて建てることを大切にしたのである。私たち生活は、復活の主によって支えられ、私たちもまた主と同じように、復活する。復活の命に向けて方向づけられている。そういう祝福の中に、すでに私たちは生き始めている。その事実は、なお涙あり、苦しみあり、疑いあり、不安あり、怒りあり、の生活をしていても、決して奪われることはない。変わることはない。今ひととき、私たちの生活に涙があり、苦しみがあり、疑いがあり、たとえ不安や怒りがあったとしても、その根底においては悲観的ではないのである。私たちは祝福に向けて進んでいるのだと、主の祝福を信じていいのである。

黒人解放運動で大変大きな働きをしたM・ルーサー・キング牧師は、メンフィスのうらぶれたモーテルで銃弾に倒れた。友人たちが泣き叫び、その傷口を手で押さえる中、バルコニーの手すりから不恰好に脚を突き出したまま、大量の血を流してキング牧師は死んだ。信仰を持たない人々は、彼の人生を総括する言葉として「 彼は多くの人の期待を集め、事実その期待に応えつつあったのだが、道半ばにして暗殺者の手に落ちた。まことに悔しい、残根でならない悲惨な最期を遂げてしまった 」と書き記した。しかし神の祝福を信じる人間は、そうではなかった。キング牧師が長く仕えていたアラバマ州のバプテスト派の教会には、キング牧師を記念して彼の等身大の壁画が2階から1階へと降りる階段の壁に描かれている。その姿はバルコニーの手すりから不恰好に脚を突き出したあの姿ではなく、クリーム色のガウンに身を包み、祝福の手を大きく広げ、黒人のキリスト者たちに囲まれながら、雲の中へと引き上げられて行く姿である。キング牧師が天に上げられる姿を描いた人たちは、手を広げて弟子たちを祝福しながら、天に昇られるイエス様のお姿を心に描き、その祝福の中にキング牧師も置かれていることを信じたのである。キング牧師だけではない。ここに集まっているイエス様を信じる私たちも、同じこの祝福の中に生きている。そした絶えず宮にいて上神をほめたたえて生きるようにされたのである。そう信じてよいのである。私たちの人生という名の楽譜には、神の祝福のフラットがその初めにつけられていて、私たちの人生全体を支配しているのだ。暗く沈んだ曲調のときにもその支配は変わらずに続いているのだ。2013年8月25日)