2013年8月26日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月26日~9月1日

8月26日(月)フィリピの信徒への手紙 2章1節~5節
 パウロは「 心を合わせ、思いをひとつに 」と勧めます(2節)。このことは「 そうだ 」と、自分で決心したところで、そう簡単にできるものではありません。だから、パウロはまことに丁寧に、慎重に「 あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら 」(1節)と語っていたのです。そうです。私たちが心をひとつにするには、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心、これだけの準備が必要なのです。神の力をいただかなければ・・・と言うことです。しかも、「 幾らかでも 」と言われています。パウロはあくまでも自分の力にではなく、キリストの救いに基づいて生きることを勧めています。

8月27日(火)フィリピの信徒への手紙 2章6節~11節
  キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした 」(6節~8節)。主は人間になってくださることによって、人間こそ仕え合う者であることを示してくださいました。本当の人間はこういう生き方をするのだ、と見せてくださったのです。人間は本来、利己心や虚栄心に生きるのではなく、相手を自分よりも優れた者として見ることができる存在なのです。私たちが虚栄心や利己心にとらわれる時、それはキリストの御業を無にしてしまうのです。

8月28日(水)フィリピの信徒への手紙 2章12節~14節
 「 従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい 」(12節)。パウロは、父なる神さまが自分の内ですでに始めてくださっている救いの業(13節)が全うされるように、自分の求められる努力を重ねようと呼びかけています。そこには当然、神様の御業に対する畏れが伴います。出エジプトの際、イスラエルの民は神様に導かれて約束の地に向けて荒野の旅を続けましたが、彼らは不平や理屈を口にして、散々モーセと神様にたてつきました。畏れのかけらも持たないかのように。しかし、彼らの旅は確かに救いに向かっている旅の途上にあったのです。「 私の救いを達成へと導こうとされる神様の御心に対して、畏れおののく心、従順な心を持とう。それがともなうとき、あなたは自分の救いの御業を達成する。分かるか? わたしの愛する人たちよ と呼びかけています。

8月29日(木)フィリピの信徒への手紙 2章15節~18節
  こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう 」(16節)。パウロの人生にはいろいろなことが起きました。迫害の体験や苦労して生み出した教会の分裂、使徒である自分への非難、そんなに苦労して大成功を収めたかと思えば、今彼は投獄され、殺されるかも知れない状況に直面しています。普通ならこんなに労苦して、何の実りもなければガッカリするでしょう。しかしパウロはその生涯を振りかえって「 無駄ではなかった 」と言います。負け惜しみではありません。そう言えるのは彼の人生が永遠に向かってのものだからです。ヨハネ6章26節を読みましょう。

8月30日(金)フィリピの信徒への手紙 2章19節~24節
 パウロは、自分がフィリピの教会に行けない状況にあるので、テモテを変わりに遣わそうとしています。そこでテモテの紹介をします。「 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています 」(21節、22節)。人は誰でも自分の事を考えます。自分が得することしか考えません。しかしテモテはそうではないとパウロは言います。パウロがテモテを信頼しているのは、彼が他の人のことを考えるからではありません。キリストのことを考える人物だからです。キリストのことを考える人は、他の人のことをも考えるのは自然な流れです。しかし人のことを考えることが、必ずしもキリストのことを考えることと一致しない場合があるのです。この順序は大事です。

8月31日(土)フィリピの信徒への手紙 2章25節~30節
 パウロがテモテをフィリピに送る前に、フィリピからパウロのもとにエパフロディトが遣わされて来ていました。しかし、彼は瀕死の重病にかかってしまったのです。フィリピの人たちの期待を担って来たのに、病気になってしまいパウロに仕えるどころか、かえって心配の種になってしまう。どんなにか彼は心苦しい思いをしたことでしょう。普通だったら、大事なところで役に立たない人と評されてしまうところでしょう。しかしパウロはこの事を神様の視点からとらえています。神様はそんな彼を、そして私をも憐れんでくださいました(27節)と。たったひとつの出来事も、見る視点を間違えると、全く違った結果を生んでしまうものです。

9月1日(日)フィリピの信徒への手紙 3章1節~11節(Ⅰ)
 「 信仰というのは、心の弱い人たちが持つものだ 」と言う人がいます。本当にそうなのでしょうか?ここで披瀝されるパウロの氏素性は、当時のユダヤ社会では目を見張る内容を持っています。エリート中のエリート、まさに強い人です。しかしそんな立場にいたことは、今では損失と見なしているとパウロは言うのです。キリストの内にとらえられている自分を知る(9節)ことの方が大きいことだと知るに至ったからです。神の手の中にある自分なのだと知る、その時人生は変わります。