2013年8月18日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月19日~25日

8月19日(月)フィリピの信徒への手紙 1章1節~7節
 フィリピの教会がどのようにして設立されたかは、使徒言行録16章に詳しく記されています。聖霊の導きによって、パウロたちがマケドニア地方(フィリピのあるところ)に行くことになり、そこでの人々との出会いが教会を生み出したのです。その出会いの出来事も不思議や奇跡に彩られており、まさに聖霊の力が働いていたことを証しています。そしてこの手紙を書いている今に至るまで、その聖霊の力が教会を育んできたことを確信して、パウロは感謝をささげています(3節~6節)。この手紙はパウロが獄中で記した手紙なのですが、他方、この手紙は喜びの手紙とも呼ばれています。それはパウロの目がいつも聖霊の働きを見る目だったことによるのです。現実の困難を透徹して聖霊の働きが見えてくる目を求めましょう。

8月20日(火)フィリピの信徒への手紙 1章8節~11節
   わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように 」(9節~10節)。伝道者が教会のために祈ること、それは愛が増えることです。教会に愛がなければ教会の命は絶えてしまいます。愛が豊かになるとはどのようなことにおいて豊かになることなのでしょうか?聖書は、知る力と見抜く力を身につけること、本当に重要な事が何かを見抜くことができる、それが身についたときに愛が豊かになったと考えているようです。愛は夢中になると分別がなくなるものだと考える向きもありますが、そうではありません。愛は賢いのです。相手の隠された思いをきちんと見抜いて思いやりますし、本当に重要なことをきちんと判断できて、それに対処するのです。そのような力はキリストによってすでに私たちに与えられ始めているのです(6節)。神は私たちの内に愛を造り始めておられます。最初から諦めてしまうのではなく、私において始まっている神の業を信じ愛に生き始めてみる事が大事です。

8月21日(水)フィリピの信徒への手紙 1章12節~14節
 パウロは、監禁され獄中に入れられてしまうときに、何を考えたでしょうか?これで自分の命が終わると思ったかも知れません。しかし獄中にとらえられてみて、驚くべきことを知らされたのです。14節です。自分の投獄が福音の前進をもたらしていると。パウロはキリストの僕である自分の身に起きている事柄の中で、主人であるイエス様が何をなされているかを知って驚嘆したに違いありません。僕は主人のすることをすべては知らないのですが、主人のすることは益になる事だと信じて良いのです。私たちも実際に投獄されなくても、いろいろなことにとらわれてしまうことがあります。まるで牢獄に置かれているように。でも心安じて良いのです。

8月22日(木)フィリピの信徒への手紙 1章15節~18節
 パウロが福音のために獄にとらえられたとき、それに励まされて愛の動機から勇敢に福音を伝える者が起こされました(16節)。しかし、不純な動機から福音を伝える人も出ました(17節)。具体的にどういうことなのかは、良く分かりませんがパウロはそれでもいいと言います(18節)。驚くべ発言です。パウロは、キリストご自身が不真実な人間の言葉を突き抜けてでも、ご自分を真理として明らかにしてくださるに違いないと考えているのです。どんな形であるにせよ、キリストが伝えられ、崇められるならばパウロはそれを喜ぶ(18節)。ただキリストのことだけを思う心が生んだ発言です。人の行動に惑わされない強さの秘密はここにありますね。

8月23日(金)フィリピの信徒への手紙 1章19節~26節

 「 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです 」(21節)。パウロは、世を去ってキリストと共にあることと、この世に生きて同胞たちの励ましとなること、二つの事の間で板ばさみになっています(23節~24節)。神の道を歩むとは、ただ自分にとって都合の良い事だけでなく、多くの人の益になる方を選ばせられることです。ゲッセマネの園におけるキリストの祈りもそうでした。神の御手は、いつも自分の好き嫌いで行動しようとする者にとっては苦しみとなりますが、逆らわずに身を任せる者には力強い支えとなります。

8月24日(土)フィリピの信徒への手紙 1章27節~28節
  ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい 」(27節)。ここで「 ふさわしい生活 」と訳されている言葉は、「 市民として生きる 」という意味の言葉です。市民とは、天国の市民という事です(3章20節参照)。天国の市民としての生きざまを具体的に示すのは28節です。それは福音に反対するものの誤りをきちんと見抜けること、言い換えると天国の価値観をきちんと身につけるということです。それはキリストのお姿をまぶたに焼き付けて行くことから始まります。

8月25日(日)フィリピの信徒への手紙 1章29節~30節
 「 あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです 」(29節)。何と驚くべき言葉でしょうか。世では、宗教は皆、苦しみから解放することができてこそ、その真価が認められるのですから・・・。しかしパウロは反対のことを言います。苦しむことも恵みだと。世には、恵みのための苦しみさえ、恵みと見られなくなるほどの苦しみが存在します。苦しみも恵みと言い切るパウロは、苦しみがキリストと自分を深く結び付けるものであることを知っていたのです。自分の苦しみを通して、私のためのキリストの苦しみの大きさを知ることができる。そのとき、苦しみも恵みとして受け止めるという変化が起きるのです。苦しみの時、キリストに目を向けてみましょう。