2013年8月18日日曜日


先週の説教要旨 「 目には見えなくても 」ルカ24章28節~35節
 イエス様が十字架の上で息を引き取り、3日経った。2人の弟子はエルサレムの都を後にする。2人はイエス様にすべての望みをかけていた。しかしそのイエス様はエルサレムでとらえられ、十字架につけられ、殺されてしまった。ガックリと肩を落とし、トボトボと歩いていく2人。そこにイエス様が現れ、2人と一緒に歩いてくださった。しかし2人はそれがイエス様だと気がつかなかった。イエス様は2人に聖書を説き明かしてくださる。しかし2人はまだ分からない。やがて日没を迎える。彼らはイエス様を呼び止め、一緒にお泊りくださいと願い、イエス様はその呼びかけに応えてくださる。一緒に食事をしているときに、イエス様が賛美の祈りを唱え、パンを裂いたとき、2人は気がつく。「 ああ、この方はイエス様ではないか 」・・・。するとイエス様の姿が見えなくなる。今朝はここに目を留めよう。どうしてイエス様は2人が分かった瞬間に見えなくなったのか・・・。ヨハネ20章に、主の復活を信じることができないトマスという弟子に、イエス様が「 見ないで信じる者は幸いである 」と言われたことが記されている。確かに見ないのに信じる人は幸いだと思う。けれども、見えた方がはるかに幸いなのではないか、見えた方がはるかに信じやすいのではないかと私たちは考えるかも知れない。特に苦しいとき、こう思う。「 ああ、イエス様が今見えたら、どんなにかいいか。今見えたらもっともっと確信をもって信じることができるのに・・・・それなのにイエス様の姿は見えない。しかし本当に目に見える方がいいのだろうか。ルカ福音書を読んで来て思うのは、イエス様を見ることができたからと言って、人はイエス様を受け入れて信じるわけではないということ。イエス様の奇跡を見ても、イエス様の力強い教えを聞いても、やはり信じない人たちはいた。そうすると、イエス様が見えたから信じやすいとか、見えないから信じにくいとか、そういうことはなである。

 イエス様はここでは、いなくなったのではない。姿が見えなくなっただけ。私たちは下手をすると、姿が見えなくなると、もういなくなったと考えてしまう。煙のように消えてなくなり、イエス様はどこかに行ってしまったと・・・。しかし聖書はそうは言っていない。「 その姿は見えなくなった」。姿が見えなくなっただけだ。イエス様はそこにおられたのだ。2人の弟子たちと共に。もう2人の弟子たちは、イエス様のお姿を見る必要がなくなったのだ。2人はイエス様が生きておられることを悟った。もう、見えていようがいまいが、復活のイエス様が共におられることを信じることができるようになったのだ。だからイエス様は目で見えるお姿をお隠しになられたのだ。実際、2人の弟子はイエス様が見えなくなったことを嘆いてはいない。「 イエス様、どこに行かれたのですか。早く戻って来てください 」と言ったとは一切書いてない。それどころか、2人は喜びに満たされて、他の弟子たちのところへ報告しに行くであるの。イエス様は生きておられる。2人は喜びに満たされて、エルサレムに引き返して行く。

 あるご婦人のお連れ合いが重篤な病になり、病院に入院していた。毎日、毎日、来る日も来る日も、ご主人の病院に通い、家に帰るのはもう日が暮れた夜・・・。暗い夜道をひとりで歩きながら、最初はこれから起こることを考えて不安になり、ため息ばかりをついていた。けれども、ある時、礼拝でこのエマオ途上の物語の話を聞いて、「 そうだ。イエス様は目に見えないけれども、この私とも一緒にあの夜道を歩いていてくださるのだ 」と気づかされた。それ以来、この方は病院の帰り、夜道を歩く時に、讃美歌を歌うようになった。賛美歌を歌いながら、目には見えないけれども今も復活の主が、この暗い夜道を自分と一緒に歩んでいてくださるという平安に包まれた。夜道はもう暗くはなかった・・・。2人の弟子が、エルサレムへと戻る道は、もう真っ暗な夜道になっていたに違いない。エマオに着いたときが、もう夕方だったのだから・・・。しかし2人には暗くはなかった。主が共にいてくださるから。その言葉を互いに歌い合うようにして、彼らはエルサレムへと急いだのではないか。イエス様のお姿は2人にはもう見えない。でも2人は知っていた。イエス様は私たちと一緒にいてくださるのだ。暗い夜道を軽やかに歩いていく姿。これがよみがえりの主と共に生きる私たち自身の姿なのである。

復活は、目に見えるということが問題なのではなく、「 イエス様は今も生きておられる 」ということに目が開かれ、そのことが分かるということなのである。復活のイエス様は御言葉の説き明かしと聖餐(パン裂き)を通して、分からせてくださった。御言葉を通して、2人の弟子の心は少しずつ燃やされて行った。主のよみがえりが聖書によって定められていたことの成就であることが説き明かされ、パンを裂かれるその仕草から弟子たちは、それがイエス様だと分かった。この2人の弟子は、最後の晩餐の席にいた弟子だとは考えられていないが、おそらくイエス様の最後の晩餐から十字架に至るまでのことは、11人の弟子たちから繰り返し、聞いていたであろう。それでパンを裂くイエス様のお姿に敏感に反応できたのだろう。復活の主は今も私たちと共に歩んでいてくださる。目には見えないが、礼拝の説教と聖餐を通して、私たちにも分からせてくださるのだ。 (2013年8月11日)