2013年8月5日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月5日~11日

8月5日(月)ガラテヤの信徒への手紙 2章15節~21節
 ユダヤ人は、「 律法を持つユダヤ人=救われている、律法を持たない異邦人=罪人であり、救われない 」と、考えていました。しかしパウロは、人が救われる( 神に義と認められる )のはイエス・キリストを信じる信仰によるのであって、律法を持ち、それを守ることによるのではないと訴えます。それにしても20節の「 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです 」という御言葉は、何と慰めに満ちた言葉でしょうか。私たちはさまざまな重荷を負って生きています。しかしその重荷を、あなた一人で背負っているように思わなくてよいのです。キリストが背負ってくださっていると言えるほどに、キリストがあなたの人生を共に生き始めてくださっているのですから。

8月6日(火)ガラテヤの信徒への手紙 3章1節~6節
  ああ、物分りの悪いガラテヤの人たち。・・・目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか 」(1節)。キリストを信じる信仰によって救いの道に入ったのに、いつのまにか律法を守って救われようとする、もとの考えに戻ってしまったガラテヤの人たち(3節)。私たちはいつも、目の前に十字架につけられたキリストを見ているように生きましょう。そうでなければ、私たちの生き方がどんなに成功しているように見えても、神の前には物分りの悪い生き方でしかないのですから。3節の「 はっきりと示された 」は、原語ではプラカードを掲げるという意味の言葉です。十字架につけられたキリストが描かれたプラカードを掲げたパウロが、威勢よく声を上げながら私たちの先頭を歩いています。

8月7日(水)ガラテヤの信徒への手紙 3章7節~14節
 10節以下で、祝福と呪いという言葉が交互に出てきます。呪いか祝福のどちらかしかない、二者択一だと言うのです。神の祝福のないところ、それは呪いでしかない。神様の祝福と呪いの間に「 中間 」はないのです。私たちは、いつでも自分は神様からの祝福が必要だと思ってはいない。しかしそうかと言って、呪われてもいいとも思わない、そんなどっちつかずの曖昧な信仰生活を送っていないでしょうか。どっちに立つか、聖書の福音は二者択一の選択を求めます。キリストは十字架につけられたご自分の姿を見せながら、今日も私たちを祝福へと招いておられます。

8月8日(木)ガラテヤの信徒への手紙 3章15節~20節
 パウロは、モーセを通して与えられた律法よりも、アブラハムを通して与えられた神の約束/契約の方が「 優位である 」ことを語ります。神のアブラハムとの契約は不変であり、その契約の後に登場するモーセの律法によって契約が破棄される事はないと。これは、神の約束/契約を信じることの方が、律法を守るということに先立っており、救いは律法を守るということではなく、信じることによるのだという論理です。約束/契約こそ聖書信仰の基調です。世間では、何かの取引する際に契約書が大事なことを知っていますから、絶えずその契約書を取り出してその内容を確認します。ならば私たちも日々、< 神との契約の書である聖書 >を取り出して、神の約束が今日も私の生活に生きていることを確かめましょう。

8月9日(金)ガラテヤの信徒への手紙 3章21節~29節
 神の約束が優位であるなら、律法は何のために存在するのか?パウロはその問いに答えています。律法はキリストのもとに導く養育係りであると(24節)。すなわち、律法は人間の罪を暴露しつつ( 人間は神の聖さの基準に到達できないものであることを示し )、私たちにはキリストの恵みが必要であることを指し示すのです。そして、キリストの恵みのみに生きる道を見出すよう働きかけるのです。それがキリスト者にとっての、神の律法のひとつの位置づけです。27節の「 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです 」には、大いに励まされます。たとえ凍えるような人生の歩みをしているときであっても、私たちは万全な防寒着を着させていただいているのですよ。

8月10日(土)ガラテヤの信徒への手紙 4章1節~7節
 律法を厳守することによって救われようとする( 律法の奴隷状態 )ことから解き放たれ、キリストを信じる信仰によって救われた私たちは、すべて神の子であるとパウロは語ります(26節)。そして今、私たちは御霊の働きによって、神を父と呼ぶことができるようにされています(6節)。私たちが神を父と呼ぶということは、大変難しいことなのです。御霊が与えられた初めて、神を父と呼べるようになるのです。もしあなたが自分の信仰に不安を覚えていても、祈りにおいて神を父と呼ぶことができるのであれば、あなたには間違いなく御霊が働いています。あなたにおける神の霊の働きを信じてよいのです。

8月11日(日)ガラテヤの信徒への手紙 4章8節~20節
  キリストのもとから落ちてしまったガラテヤの人たちのことを思い、深く悲しむパウロの心が伝わってくる箇所です。「 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます 」(19節)。パウロは途方に暮れて、教会のためにもう一度苦しもうとしています(20節)。このパウロのうめきは、イエス・キリストの十字架上でのうめきによって担われていますね。キリストも神の子を世に産み出すために、十字架の上で産みの苦しみを味わわれました。ひとりのキリスト者が生まれ、形作られるまでに、その陰で産みの苦しみを担ってくれた人がいるのですね。あなたの誕生の影にも。