2013年8月13日火曜日


先週の説教要旨 「 主はあなたと共に歩まれる 」ルカ24章13節~35節
 2人の弟子のことが書かれている。2人は深い失意と悲しみの中にいる。その悲しみを互いに語りながら夕暮れの道を歩いている。聖書には、その彼らのところに、復活されたイエス様ご自身が近づいて、一緒に歩き始めたと書かれている。しかし2人の目はさえぎられていて、それがイエス様だと気がつかなかった。彼らの悲しみがあまりにも深かったからである。イエス様が死んでしまったという失望があまりにも大きかったから気がつかなかったのである。自分たちの人生をかけていたイエス様が殺され、望みを絶たれてしまった彼らに残され唯一の道は、かつて捨てたはずの生活に戻って行くことであったそれで2人は故郷のエマオの町へと向かっているす。時はもう夕暮れ、2人の心を映し出すかのようにあたりは次第に闇が深まっていく。彼らは本当の救い主であるイエス様のことが分からなくなってしまっていた。「 わたしたちは、あの方こそ、イスラエルを解放してくださると望みをかけていました 」とあめように、彼らはローマ帝国の手から祖国を解放する救い主であるとイエス様のことを見ていた。だが、イエス様はローマに捕らえられたとき、何の抵抗もせずに、あっさりと殺されてしまったのだ。それで救い主が何であるか、分からなくなってしまっているのだ。2人の悲しみ、失意、それらの根っ子にあることは「 救い主としてのイエス様 」が分からないということ。そのように、私たちも何か心くじけてしまう時、途方に暮れてしまう時、行き詰まり、失意に陥る時、私たちは「 救い主であるイエス様が分からなくなっている 」のではないか。「 今、共に歩んでおられるお方が・・・、この方が私に何をしてくださる救い主なのか 」、分からなくなっているのではないか。しかしもしイエス様のことが分かるようになれば、話は断然、違ってくる。「そうすると、私たちの人生は失意で終わらなくなる。くじけたままであることはなくなる。傷ついた心は癒され、途方に暮れたままで、人生の夕暮れを迎えることはなくなるのである。

 このあと、2人とイエス様との間には聖書を中心とした対話が生まれ、対話しながら歩いて行く。28節に「 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった 」とあるが、2人の弟子たちはエマオに着いた。そこはイエス様を信じる前にしていた生活を再び始めようとしている場所、失意のままの生活が始まる場所なのである。だがイエス様は、彼らの目指したエマオよりもなお先に進もうとされる。それはあたかも、「 失意のままで終わる生き方を、あなたたちのゴールとしてはならない。私たちはなおその先に進むのだ。このままで終わらせるわけにはいかない 」というイエス様の強い意志を示されているかのようである。

 イエス様は、救い主のことが分からなくなっている2人にそっと近寄って、一緒に歩き始められた。そして聖書から本当の救い主の働きについて、説明してくださった。その結果、2人の弟子たちの心は燃えた。イエス様との対話を通して、2人の心の傷は癒され、失われていた希望も復活して行く。最初、2人はつぶやいていたが、イエス様が一緒に歩き始めてくださると、そのつぶやきは訴えに変わり、訴えは会話となり、やがて信仰の告白となって行く。そうやって2人の魂は次第に癒され、魂は満ちたり、安らいで行く。私たちも礼拝の場で聖書の説教を通してイエス様と対話をし、つぶやきが、訴えに、訴えが信仰の告白へと変えられていく経験をする。そのようにしてイエス様は私たちを導き、私たちにと一緒に歩んでくださっている救い主がどういうことを私たちにしてくださるのか、分からせてくださる。

 夕暮れの道を歩く弟子たち、彼らの背後には、残してきたこと、成し遂げることができなかったことが一杯ある。失った大事なものが彼らの背後にはある。あるいはとりかえしのつかない失敗がある。できることなら、引き返して行って、その恥ずかしいことを流してしまいたいような数々のことが自分の過去を真っ黒に彩っている。そういうものを背負いながら夕暮れの道を歩いている・・・。私たちにもつらいこと、悲しいことが一杯ある。無念なことが一杯ある。ああすればよかった、こうしておけばよかったと思うことが一杯ある。とりかえしのつかないことが一杯、背後にある。私たちはそういうものを自分の肩の上に乗せて、この道を歩いている。人生と言う道を。だが、その私たちと一緒に復活の主も歩いていてくださる。そして私たちの言葉に耳を傾けていてくださる。悲しい話、悔しい話、つらい話、恥ずかしい話、キリストはそばで耳を傾けて、聞いていてくださる。私たちはどんなことだって、この方に話すことができる。なぜならこの救い主は、私たちの罪を知り、誰よりも私たちの罪を深く知り、そしてそういう私たちを受け止め、赦し、失敗だらけの私たちの人生をまるごと贖うために十字架についてくださった方だから。

このエマオ途上の物語は、有名な絵となって知られている。その絵は、夕暮れの絵ではなくて、朝の光が射す森の道をイエス様と共に歩く絵になっている。弟子たちは前方に広がる大きな光に向けて歩いている。作者は、復活の主と共に歩む道は前方に広がる光へと進んで行く道であり、次第に暗くなって行く歩みではないと、信仰を込めて、そのような絵にしたのであろう。私たちは夕暮れの道でなく、前方に光が広がる道へと、復活の主と共に進んでいるのである。2013年8月11日)