2013年8月5日月曜日


先週の説教要旨 「 あの方はここにはおられない 」ルカ24章1節~12節

空になった墓の前で途方に暮れる婦人たち。この婦人たちについては8章1節~3節で「 悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち・・・彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた 」と紹介されている。彼女たちにとってイエス様は命の恩人、イエス様にすべてを捧げ、喜ばれることをしたい、それが彼女たちの喜びとなり、イエス様に従っていた。しかし、あっと言う間にイエス様への反対者が起こり、一夜の裁判で、イエス様はあっけなく十字架につけられてしまった。婦人たちは自分の心が押し潰されるような気持ちになった。心の中心、自分を支えていた、頼りにしていたイエス様を失った。その絶望の中で婦人たちは、「 墓穴の中にあるイエス様の遺体を生涯かけて守ること 」、そこに唯一の慰めを見出そうとした。婦人たちは安息日が明けるとイエス様の本格的な葬りをしようとすぐに行動を開始した。ところが墓についてみると、墓の入り口の大きな石が転がしてあって、イエス様の遺体がない。墓は空になっている。婦人たちイエス様を奪われた喪失に、上塗りをされるような喪失を体験することになった。奈落の底に突き落とされた婦人たちは、最後の慰めをも奪われ、墓の中が空っぽというだけでなく、彼女たちの心も空っぽになってしまった。そして途方に暮れて墓の前に立ち尽くしている。人は生きていてれば、様々な喪失体験や無力さを味わう経験をする。しかしそれが主の御前にあるならば、その体験は空しいままでは終わらない。人は倒れてもいいのだ。主の御前に倒れるのであれば・・・。

婦人たちの前に突然、輝く衣を着た二人の人が現れる。天使だ。そのまばゆいばかりの光に触れて婦人たちは地にひれ伏した。光の圧倒的な力の前に身を伏せた。それはあたかも神の世界と人間の世界とが衝突したまさにその地点に立たされたようであった。婦人たちは塵と灰からなる人間として、地に顔を伏せた。ただ聴く者としてある他はなかったのである。そこに御言葉が語られる。「 なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか 」と。 イエス様の復活を告げる神の言葉が、地に身を伏せるものたちのところに到来した。天からの光は夜の最も深いところに到来した。一切のことの果て、人間の理性の尽きるところ、自分の願望といったものの終わりの地点に立つ者のところに到来したのだ。倒れてもいい。主の御前になら。この祝福があるから。婦人たちは天使の言葉を聞いてイエスの言葉を思い出した。ここでの思い出すは、思い当たると言い換えるとよい。自分の中にとどまっていた言葉が、何かの経験、何かの出来事を契機として思い起こし納得すること、それが思い当たること。納得するのである。私たちは礼拝で御言葉を聞き続けている。聞く御言葉は、今日は役に立たないかも知れない。だが、それは決して無意味なことではないのだ。私たちも「 思い出しなさい 」と語られる時が来るかも知れない。いつか思い出す時のために、私たちは御言葉を聴き続ける、そういう面もあるのである。

途方に暮れていた婦人たちの虚しさは、単にイエス様の遺体がなくなってしまったという外面的な問題だけでなく、「 イエス様は救い主であると思ってついて来たけれども、そのイエス様がどういう方であるか分からなくなってしまっている 」、そういう内面的な問題も含まれている。イエス様はいかなる救い主であるのか。彼女たちは生涯かけてイエス様の遺体の番をすることで、ささやかにも自分のイエス様への愛を全うし、そこに最後の慰めを見出そうとした。だが、そのような生き方は死の支配する領域の中に救い主イエス様を閉じ込めてしまうことであり、それは正しい仕え方ではない。自分が慰めを必要とする時にいつでも自由に取り出すことのできる人間の管理下に置かれている救い主は、真の救い主とは言えない。復活のイエス様はそのような小さな救い主ではないのだ。イエス様は死を突き破った命の世界、永遠の命へと広がる世界に立っておられる救い主なのである。私たちは、死んだらすべてが終わりという世の人生観に生きていて、それでいてそのような地上の人生を有意義にしてくださる方として救い主を仰いでいることはないか。そのような信仰は必ず空しい空の墓を見させられる結果を招く。たとえそれが婦人たちのように熱心な信仰であっても・・・。復活を信じる私たちは、死に支配されない、死を越えた望みに生きることができる。その生活の中でイエス様に仕えるのである。

 今朝の箇所には、もうひとりの大切な人が登場する。弟子のペトロ。彼もこのとき、無力さに立ち上がれないでいた。イエス様を裏切ってしまった弱さと無力感の中にいた。他の弟子たちは婦人たちの証言を「 たわ言 」と片付けたが、ペトロは違った。立ち上がって墓に向かって走った。この「 立ち上がる 」という言葉は「 復活 」と訳される言葉である。この時点でペトロがイエス様の復活を信じたとは書かれていないが、このときからペトロの立ち直りは始まったのだと、ルカは記しているのである。死という限界に足踏みすることなく、走り始めるペトロの姿は、イエス様に聞いて生きる私たちの姿なのではないか。  2013年7月28日)