2013年8月13日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  8月12日~18日

8月12日(月)ガラテヤの信徒への手紙 4章21節~5章1節
 パウロは、自分の力で律法を守ることによるのでなく、神の約束に対する信仰を通して救われた者がアブラハムの祝福を相続する子孫であることを、旧約聖書から例証します。アブラハムには2人の子がいました。神がその誕生を約束してくださっていた正妻のサラを通して与えられたイサク。そしてイサクが中々与えられなかったときに、焦ったアブラハムが自力で子を残そうと、女奴隷ハガルによって設けたイシュマエルの2人です。祝福を受け継いだのは、約束によって与えられたイサクで、自力で設けたイシュマエルではありませんでした。同様に、私たちが神の祝福を受け継げるのは、私たちの正しい行いをすることが理由なのではなく、私たちが神の約束を信じているということによるのです。それにしても神の約束は何と力強いことでしょう。人間の罪による不信をも突き破って必ず成就するのですから。

8月13日(火)ガラテヤの信徒への手紙 5章2節~6節
  律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います 」(4節)。パウロは、神の恵みか、律法厳守か、二者択一を迫ります。キリストを完全に必要とするか、あるいはまったく必要としないか、中途半端に必要というのはありません。パウロは、割礼を受け、律法を守る必要はない。必要なのは<愛の実践を伴う信仰>だと言います(6節)。原文では、<愛を通じてエネルギーを発揮する信仰>です。自分の力で律法を守り、神の前に立てるなどと考えるところに神に対する愛は芽生えません。それはギブアンドテイクの対等な関係でしかありません。神の約束を信じることで何の功もない者を赦してくださるところにこそ、愛の関係は芽生えるのです。

8月14日(水)ガラテヤの信徒への手紙 5章7節~12節
  ガラテヤの教会の人たちを惑わす者に大変厳しい言葉を語るパウロです。自分の力でもって(律法を守って)、信仰生活の正しさを作って行って、「 自分は神の恵みを持っている、自分は神に救われている 」と自信を持って言える道を求めることは、再び不自由な生活に戻ることなのです。人は「 キリストの恵みだけで生きている 」という頼りないことでは困ると考え、「 自分の力で 」という面をことのほか大事にしようとします。それが人間らしい生き方だと思うからでしょう。しかし聖書の示す人間の生き方は、水泳をするのに似ています。自分の力で水に浮いて泳ごうとするといずれ力尽きて沈んでしまいます。体を水に委ね、水に支えられるとき、はじめて自分の力が泳ぐための有効な働きとなります。信仰もそれと同じなのです。

8月15日(木)ガラテヤの信徒への手紙 5章13節~15節
 「 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい 」(13節)。私たちは自由を与えられるために召されました。神がキリスト者に与えられた自由は肉の働く機会としても用いることができるし、愛の道に生きることもできます。「 隣人を自分のように愛しなさい 」(14節)、隣人を愛することなく、自分を正しく愛することはできないと聖書は言います。隣人を憎み、排除しているとき、必ずどこかで自分を深く傷つけているはずだと言うのです。自分を愛し、隣人を憎むような器用な生き方は私たちにはできないはずだと聖書は言うのです。

8月16日(金)ガラテヤの信徒への手紙 5章16節~26節
 ここでは、御霊に導かれる生活と肉の思いに突き動かされている生活と、2種類の生活が挙げられています。キリスト者の生活というのは、御霊に導かれる生活であって、自分の意志や決意によって歩む生活ではありません。「 わたしはこの道を行く 」と心定め、自分の前途を切り開いていくのではないのです。御霊が導いてくださるところに、私たち信仰者の進む道はできるのです。だから御霊の導きを求める祈りが必要ですね。旧約のイスラエルの民は、モーセを通して、神に導かれ、道なき荒野に道を見つけて進みました。しかしその道は神の与えてくださる約束の地へとちゃんとつながっていましたね。

8月17日(土)ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~10節
  昨日の個所で御霊に導かれて歩もうと語ったパウロ。御霊に導かれて歩む中に生ずる実の最初のものは愛でした(5章22節)。ここでは、その愛が具体的にどういう形をとるかを語って見せています。もし兄弟が誤った道に陥ったら、正しい道に立ち帰らせるのです(1節)。マルコ1章19節を読むと、ヤコブとヨハネが舟の中で一緒に座り込んで網を繕っている情景が描かれています。兄弟を立ち帰らせるとは、兄弟の傍らに一緒に座り込んで、その人の破れた網を一緒になって繕い始めることなのです。破れた網を押し広げるような言葉を浴びせることではありません。

8月18日(日)ガラテヤの信徒への手紙 6章11節~18節
  11節を根拠に、パウロは目が悪かったのだと言われます。しかし、パウロは実際に目が悪くても、物事をきちんと見分ける目は確かでした。信仰者はどこに自分の望みを見出すか?パウロは自分の誇り、自分の喜びのありかをきちんと見分けています。「 しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません 」(14節)。「 わたしはイエスの焼き印を身に受けている 」(17節)。当時、奴隷は主人のイニシャルの焼き印を体に押されました。屈辱的なしるしなのですが、パウロはイエス様の奴隷であることをこの上ない喜びと受け取っています。あなたはどこに自分の望みを見出しますか?