2013年7月30日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月29日~8月4日

7月29日(月)ガラテヤの信徒への手紙 1章1節~5節
 この手紙は、行いによるのではなく、信じることによって救われるという、いわゆる「 信仰義認 」の教えがテーマになっています。ガラテヤの教会では、この教えを否定する人たちがいて、パウロはこの教え(福音の中心)を弁明するために手紙を書いたのです。そのテーマに、パウロの使徒性の擁護やキリスト者の自由などの問題が絡んで出てきます。論理的に整理された内容で、読みやすい手紙です。3節に「 わたしたちの父である神と、主イエス・キリストの恵みと平和が、あなたがたにあるように 」と書かれています。この祈りには、自分たちの行いによるのではなく、ただただキリストの恵みの中にこそ、救いの根拠を見出してほしいという願いが込められています。「 神の恵みのみ 」に立ち続けることこそ、信仰なのです。

7月30日(火)ガラテヤの信徒への手紙 1章6節~10節
  パウロが伝えた福音と別の福音(と言っても、そのようなものはないのですが:7節)、パウロはかなり厳しい言葉をもってガラテヤの信徒に<二者択一>を迫ります。パウロが伝えたキリストの福音から他の者に乗り換えている姿にあきれ果てるパウロ(6節)。別の福音を選ぶ者は「 呪われよ 」(8節)とさえ言っています。「 呪われよ 」とは、神に捧げるという意味の言葉です。あとは、神にまかせるしかないということなのでしょう。人がキリストの福音から離れることに対し、これほどの真剣さをもって忠告してくれる仲間がいることは幸いなことだと思います。

7月31日(水)ガラテヤの信徒への手紙 1章11節~12節
  わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません 」(11節)というパウロ。彼の伝える福音は、その起源を神に持っています(12節)。パウロの伝える福音は、神の恵みのみによって救われるというものでした。「 ただより高いものはない 」という言葉がありますが、人間は「 ただ 」ということに信頼をおかないところがあります。「 自分の力で 」という面があってこそ、本当に人間らしく生きていると思い込んでいるからです。人間が持つ本性のようなものに真っ向から対立する福音、それがパウロの伝える福音でした。人間の発想からは生まれてこないような、まさに神に起源を有する福音なのです。

8月1日(木)ガラテヤの信徒への手紙 1章13節~24節(Ⅰ)

 福音そのものが疑われ始めるとき、その福音を伝えている者の存在も疑われてしまうのは、致し方ないことです。彼の伝える福音は、神に起源を有するものではないとの非難もあったようです。そこで、パウロは自分の経歴を語って、自分がただイエス・キリストによってのみ、使徒とされたことを証明しようとしているのです。パウロは、自分がユダヤ教徒として、ユダヤ教への熱心のあまり、神の教会を迫害していたということを語ります(13節~14節)。そして、そういう神にさえ敵対していた時代を過ごしていた自分もまた、実は、生まれる前から神の御手の中にあったことを「 胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった 」(15節)と言う言葉で言い表しています。実際に神と出会う以前から、自分は神の御手の中にあったのだという召しの深まり。私たちにも思いあたる体験です。

 

8月2日(金)ガラテヤの信徒への手紙 1章13節~24節(Ⅱ)
 パウロは、あのダマスコ途上で劇的に神と出会う体験(使徒言行録9章参照)をしてから、そのことを先輩使徒たちと分かち合うことなく、3年の間アラビアに退いてただ一人、神の御前に召しを確認するときを過ごしています(16節~19節)。パウロは、このような形で自分の伝える福音の神的起源を弁護しているのですが、私たちも何か大きな働きに就くとき、あるいは人生の大きな決断をするとき、人の言葉を避けて、徹底的に神の御前にその導きを問うということがあって良いのではないか?と問いかけられているように思います。

8月3日(土)ガラテヤの信徒への手紙 2章1節~10節
  ここでは啓示にしたがって、エルサレムで使徒たちに会ったパウロの様子が記されています(1節~2節)。潜り込んできた偽の兄弟たちが(4節)、救われるためにはキリストを信じるだけでなく、ユダヤ教が行っていた割礼を受け、律法を守らなければならないと教えたため、今までのパウロの宣教(パウロは割礼など受けなくても、キリストを信じる信仰によって救われるという福音を伝えていた)が無駄にならないように使徒たちに同意を求めるためでした。ペトロたちはパウロの言うことを理解し、一致しました(9節)。パウロは、自分の信じていることが真理でなければ、自分は無駄な人生を過ごしている事になると考えています。そうです。私たちは、真理に根差して生きていないとき、実は人生を無駄に生きているのです。

8月4日(日)ガラテヤの信徒への手紙 2章11節~14節
  救われるには、ユダヤ人の習慣を守る必要はない 」と、確認したパウロとペトロらでしたが、ある人々が来てからペトロの態度がおかしくなりました(12節)。異邦人と食事をしないというユダヤ人の習慣に戻ってしまったのです。それでパウロはペトロを厳しく叱責した(11節)。キリスト者は、同じ福音に生きているという事実を認めながら、明らかに一人一人が違った生き方をしていいのです。お互いをそのように認めて、救いとは関係のない自分たちの習慣を押し付けてはならないのです。ある人が言いました。「 信仰(救いに必要な条件)には譲歩がないが、愛(救われた者がどのように感謝の生活を作るか)には譲歩がある 」と。