2013年7月23日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月22日~28日

7月22日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12節~19節
  コリント教会には、御子キリストのおよみがえりは信じても、死んだ人間がもう一度よみがえることは信じないという人たちがいました(12節、16節)。両者を切り離して考えたのです。しかし、パウロは、キリストの復活と私たちの復活は切り離せないと指摘します(13節)。キリストが復活したからには、私たちも復活するのだと。父なる神がキリストに対してしてくださったことと同じことを、神は私たちにもしてくださるのです。父なる神は、キリストに十字架の上で死ぬという苦しみを与えられましたが、その苦しみの先で「 復活 」という栄光の輝きをも与えられました。苦しみに遭う時、父なる神がキリストになされたことを思い出そう。

7月23日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章20節~28節
  キリストの復活が意味するものは、罪に対する完全な勝利です。17節で、もしキリストが復活しなかったのなら、あなたがたは今もなお罪の中にいることになると言われていました。キリストの復活がなければ、私たちの罪は贖われずに神の前に残ったままなのです。罪の裁きとしての死の壁を突き破ったキリストの復活は、私たちの罪が父なる神の前に完全に贖われたことの証しです(22節)。復活のキリストに最初に出会った人は、七つの悪霊に憑かれ、罪の生活をしていたマグダラのマリアと呼ばれる人でした(マルコ16章9節)。罪の贖いの喜びが、罪の悲しみを誰よりも身にしみて知っている者に、最初に伝えられたとは・・。愛と慰めに満ちた神様のなさり方に感動です。神様はいつも私たちにそのような接し方をされます。

7月24日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章29節~34節
 死者のための洗礼(29節)とは、死んだ者に代わって誰かが洗礼を受けることですが、今日では無意味なこととして行われていません。復活を信じていないのに、そんなことをするのはおかしい事だとパウロは言うのです。復活を否定し、死んだらすべてが終わりと考えると、「 食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか 」(32節)という虚無的な生き方になります。神は、すべてのものを虚しくさせかねない死という壁を突き破ることで、この地上の営みのすべてに真実の価値を取り戻してくださったのです。だから今日一日の労苦にも意味を見出し、その労苦を精一杯負うことができるのですよ(マタイ6章34節)。

7月25日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章35節~49節
   私たちが復活する時には、一体どのようなからだで復活するのでしょうか?土葬を前に、死んだ人の肉体を見つめながら、コリントの教会の人たちはどうしても信じられないものを感じていたのです。本当にこの肉体が復活するのだろうか?と。パウロは、そのような問いは愚かであると言います(25節~26節)。復活の時に神様からいただく肉体は新しい霊の体、私たちの知らないからだだからです(44節)。それがどのようなものであるかは、私たちの知る必要のないことです。知るべきことは、私たちが最後のアダムと呼ばれる(45節)復活のキリスト、天に属するキリストの似姿にもなる(49節)と言うことです。特に愛において、私たちもまたキリストに似た者にしていただけるのです。つまり、私たちが日常直面し続けている「 愛することの格闘 」から解き放たれるのです。

7月26日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章50節~58節
 「 わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう 」(57節)。イエス・キリストのご生涯は、その誕生から十字架、復活に至るまで、すべてが預言されていたことの成就、つまり神の約束が実現したことを証ししているのです。聖書の中には、神の民に対するたくさんの神の約束が書かれています。それらはすべて確かな事であると、キリストのご生涯は保証してくれているのです。神の民の生き方、それはその約束に賭ける生き方です。目に映る現実にはではなく、神の約束の言葉に賭けて一歩踏み込む。アブラハムもモーセもヨシュアも皆、そのようにして歩みました。さあ、私たちも後に続きましょう。

7月27日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 16章1節~12節
   この手紙の本論を書き終えたパウロは、自分の旅行計画を記しています(5節以降)。そこでパウロは、言うのです。「 主が許してくだされば、しばらくあなたがたのところに滞在したいと思っています 」(7節)。私たちは色々な計画を立てますが、主が許してくださればと、そこで主の御心が重んじられているでしょうか?主の御心ということが意識の中から抜けていると、どうしてもこの事をするのだと、自己主張して我を通そうとしたり、祈って時を待つべきところで祈らずに焦って行動してしまったりすることです。主の御心を重んじるところには、方向を切り替えたり、立ち止まったり、前進したりと、しなやかな信仰の歩みが生み出されます。

7月28日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 16章13節~24節
   コリントの教会には多くの問題があり、それを解決するためにパウロは厳しいこともずいぶんと語って来ました。手紙の最後、パウロの目には心をひとつにしてこれらの課題を乗り越えるぞ、というコリントの教会の人たちの姿が映っていたのかも知れません。どうぞ、主を愛してください。主を愛さない者にならないでください。そうでないと主から見捨てられてしまう(22節)と語るパウロ。使徒としてそのことは厳しく言わなければならないけれども、同時にそういう人がでないようにと祝福を祈り(23節)、自分の愛を届けるパウロ(24節)。この手紙は、使徒として生き抜いた伝道者パウロの存在を注ぐような言葉で終わっています。