2013年7月23日火曜日


先週の説教要旨 「 十字架、それは深い底から 」 ルカ23章44節~49節

 イエス様が十字架の上で息を引き取られた箇所だが、44節、「 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり 」とあるように、イエス様の十字架は暗闇の中で起こった出来事である。太陽は光を失っていたとも書いてある。それと合わせて、「 神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた 」ということも書かれているが、これが何を意味しているのかは諸説があるが、ある人はこれも暗闇を表現する言葉なのだという。神殿というのは、イスラエルの人たちにとって光の象徴だった。その神殿の垂れ幕が裂けたということは、光の象徴である神殿にまで暗闇が及んだのだということ。つまり、このとき全地は神殿に至るまで、暗闇に支配されていたのである。ところで、太陽が光を失う暗さとは一体、どんな暗さなのだろう。太陽が雲にかき消されたとか、皆既日食が起きたという程度の暗さでもないであろう。太陽そのものが光を失ってしまったのだから。そしてこの暗闇というのは、何を意味しているのだろうか。

 出エジプトの際、エジプトの民に10の災いが下されたことが旧約聖書に記されているが、決定的な10番目の災い、エジプト人への裁きとしての災いは、「 暗闇 」の中で行なわれた。そのように旧約聖書では、暗闇というのは神の裁きとしての側面を持つ。旧約聖書のアモス書には、背信のイスラエルの民に対する神の裁きを次のように予告した。「 その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ/白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに/喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え/どの腰にも粗布をまとわせ/どの頭の髪の毛もそり落とさせ/独り子を亡くしたような悲しみを与え/その最期を苦悩に満ちた日とする 」。「 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。・・・主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない 」。旧約聖書において、光というのは神様がこちらを向いてくださるということ、神様がこちらに御顔を向けて下さると、私たちは光に照らし出される。しかしその反対、神様が私たちから御顔を背けると、それは神の裁きとなり、暗闇になってしまう。それが旧約聖書の考え方なのである。その考え方によると、イエス様の十字架は、神様が御顔を背けた瞬間だった、イエス様が父なる神様に裁かれ、見捨てられたのだということを示している。イエス様は、神様が御顔を向けてくださらないその深い暗闇の中にひとり捨て置かれてしまった。それは、私たちに代わって、この裁きを受けてくださった、この苦しみを受けてくださった、ということ。

 だが、イエス様はその暗闇の中でこう叫ばれた。「 父よ、わたしの霊を御手に委ねます 」・・・旧約聖書の中では「 父よ 」と、神様に呼びかけている例はほとんどない。「 父よ 」、それだけ身近な存在として神様を呼べるというのは、旧約聖書では思いもよらないことだった。しかしイエス様は、ここで「 父よ 」と、非常に身近に呼びかけてくださっている。「 父よ 」と、深く信頼して呼びかけてくださっている。見捨てられたにもかかわらず。暗闇の中にひとり、捨て置かれたにもかかわらず・・・・。この「 父よ、わたしの霊を御手に委ねます 」という言葉は、詩編31編6節からの引用とされるが、そこでは「 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます 」となっている。父という言葉は、使われていない。イスラエルの民は毎日、寝る前には、「 まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます 」と、この言葉を用いて祈ってから床に就いたという。寝るときというのは、私たちが最も無防備になるときだが、寝ている時に何が起ころうが神様に一切をお委ねする思いで眠りについたのだ。イエス様もそのお委ねする思いをもって、これから私に起こる一切のあなたの御業を受け入れます、という信頼をもって死の眠りについたのである・・・。それを見た百人隊長は「 本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美した。死の中で、この祈りができるということはこの人は本当に神様と深く、正しい確かな関わりに生きていた人なのだ、そのことが分かったと言ったのである。そしてそのイエス様を、父なる神様は死人の中に捨て置かずに、死人の中から引き上げてくださった。イエス様に信頼に応えるように、父なる神様は復活という御業をイエス様の身に与えてくださった。

 ここには2つの恵みがある。ひとつは、イエス様が私たちに《 代わって 》神の見捨てという暗闇、深い穴とも言うべきところに捨て置かれたのだから、私たちはもうそのような穴の中に捨て置かれることはないのだと言うこと。そしてもうひとつは、神様がその深い穴の底からイエス様を《 引き上げてくださったのだから 》、神様の手の届かない深い穴など、もはや私たちには存在しないのだということ。それがイエス様の十字架に込められた福音。80歳を越えたあるご婦人は、40年以上も盲学校の卒業生にオルゴールを匿名で贈り続けていた。かつて大病をして命の危険もあった時、神様に救われてその危険を乗り越えた。その時に、与えられた残りの人生は何か人の役に立つこと、恩返しのために過ごしたいと思ったのである。ある卒業生が将来を悩み、この人に手紙を書くと「 トンネルの向こうには明るい光が待っている 」と短い返事が届いたという。もはや神様の手の届かぬ暗闇はないと信じている人からの励ましの言葉である。 2013年7月14日)