2013年7月30日火曜日


先週の説教要旨 「 墓が新しくなる 」 ルカ23章50節~56節

 私たちが信じる神は、いかなる神なのか。私たちの信じる神は、一番期待できないと思われるところから、恵みの業を引き出すことができる方なのではないか。

イエス様が十字架の上で息を引きとられたとき、ガリラヤからずっとイエス様に従って来ていた婦人たちは、悲しみで心が引き裂かれる思いになった。そして「 せめて、この方のご遺体を丁寧に葬って差し上げたい 」、それが自分たちに唯一残された、この方に対する最後のご奉仕だと思った。しかし彼女たちにはイエス様のご遺体を葬ることができない。なぜなら、葬ることが可能なお墓を持っていなかったから。申命記には「 ある人が死刑に当たる罪を犯して処刑され、あなたがその人を木にかけるならば、死体を木にかけたまま夜を過ごすことなく、必ずその日のうちに埋めねばならない。木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである 」と記されている。この律法の規定によると、イエス様の遺体は必ず、死んだその日のうちに埋葬しなければならない。時はもう午後の3時を回っている。ユダヤの1日は、夕方から始まり夕方で終わるから、「 その日のうちに 」という条件を満たすにはもう時間がない。一体、だれがこの方の埋葬を行なってくれるのだろうか。男の弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げてしまっていた。他の誰かに期待しようにも、犯罪人として処刑された人間の遺体など、家族がそっと引き取る以外、通常は考えられないようなことなのだから・・・。もしかしたら、このまま誰も引き取ることなく、イエス様のご遺体は木に吊るされたまま放置されてしまうことになるかも知れない・・・。

 しかし、そんなご婦人たちの耳に、どこからともなく、ひとつの足音が聞こえてくる。そしてひとつの手が動き始め、イエス様のご遺体を十字架から引き降ろし始めた。そのことをしたのはヨセフという名前を持つ、ひとりの議員だった。マルコでは「 身分の高い議員 」と紹介されているから、彼はユダヤの最高議会の議員のひとりであったと考えられている。ユダヤの最高議会、ポンテオ・ビラトに「 この男を十字架にかけて殺すよう 」訴えたのは、まさにこの人たちであった。イエス様と最も激しく対立した人たち・・・しかしその議会の中から、神はイエス様の遺ご体を葬る人間を引き起こされた。一番期待できないと思われるところから、葬りを行なう人間を引き起こされたのである。私たちが信じる神は、一番期待できないと思われるところから、恵みの業を引き出すことがおできになる方なのである。イエス様に従って来た婦人たちにとって、ヨセフという議員の存在はユダヤ最高議会というベールに覆われて、全く見ることができないでいただろう。しかし神は確かに「 神の国を待ち望んでいる人間、イエス様の弟子になっている人間 」を用意されていたのだ。私たちの日々の生活をよく見回して見るとき、そこには「 期待できない 」という言葉がピッタリくるようなことばかりに囲まれているかも知れない。こういう環境では何も期待できない、こういう人には何も期待できない、そしてこういう自分にはもう何も期待できない・・・と。しかし、そういうあなたの日々の生活を共に歩んでくださっている神は、その期待できないと思うところにも、恵みを生み出すことのできる方、その御業のために、「 私たちには見えない準備 」をすでにしてくださっているお方なのである。

 神が準備されていた、このアリマタヤ出身のヨセフ、彼は必ずしも「 強い信仰 」の持ち主ではなかった。彼がした奉仕は「 弱さなしの奉仕 」ではなく、「 弱さを抱えたまま 」の奉仕であった。ルカは彼のことを「 善良な正しい人で、同僚の決議や行動には同意しなかった 」と紹介している。「 同僚の決議や行動には反対していた 」というのではなく、「 同意しなかった 」と言う。ヨハネ福音書は、そのことを「 イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた 」、「 議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである 」と記している。「 同意しなかった 」というのは、明確に反対意見を述べていたということではなく、反対も賛成も表明しない、棄権して結果的に賛成票として扱われなかったということなのだろう。しかしこの煮え切らない分裂状態、弱さを抱えたままものヨセフを、神はここ一番というところで、ご自身の御業のためにお用いになる。ヨセフは、「 まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓 」を提供した。おそらく自分のための墓であったのだろう。墓、そこは「 もう、これでおしまい、ここにはもう何も期待することなどない。すべてが終わってしまったのだ 」という場所でしかなかった。キリストが復活なさるまでは・・・。主が復活なさるとき、墓は終わりを意味しなくなり、新しい命への旅立ちの場になる。墓は新しい意味を持つ場所に変えられてしまうことをヨセフは知らなかった。そこでも、神は一番期待できないと思われたところから最も大いなる恵みを引き出されるのである。2013年7月21日)