2013年7月9日火曜日


先週の説教要旨 「 私を見て深く涙しなさい 」 ルカ23章26節~31節
  カトリック教会の礼拝堂は、周りの壁に14枚の絵を飾っている。「 十字架の道行き 」と呼ばれるもので、イエス様の裁判から埋葬までに至るまでの14の場面を絵にしたものである。来拝者は絵の前に立ち、そこに描かれたイエス様のお姿を黙想し、祈る。それを第一の絵から初めて、順番に第十四番目の絵まで、黙想と祈りを繰り返す。カトリックの人たちは、礼拝堂とはそのようにイエス様の十字架への道行きを思い巡らす場所なのだと意識している。素晴らしいことである。ところでルカ福音書を読むと、十字架の道行きは14の場面も描かれていないことに気がつく。ルカの場合、裁判と埋葬以外ではキレネ人シモンのこととイエス様に従った女性たちのことだけである。聖書が描く十字架の場面は、イエス様を侮辱し、あざ笑い、鞭でたたく乾いた笑い声と乾いた鞭の音ばかりが聞こえてくるような場面なので、ここを読んでホッとした気持ちになるかも知れない。最後までイエス様に寄り添って歩む婦人たちがいたのだと・・・。たが、そういう女性たちにイエス様は「 わたしのために泣くな。むしろ自分と自分の子供たちのために泣け 」と言われる。簡単に言ってしまえば、あなたがたの泣き方は間違っているということ。それはどういうことなのであろうか。神の恐ろしい裁きの日が来る。そのとき、幸せな人ほど不幸な人になる。幸せであればあるほど、その日に失うものが多いからだ(29節)。神が人を裁く日は、それほど恐ろしい日なのである。その裁きに直面するぐらいなら、まだ山が自分の上に崩れ落ちてくれる方ガいいと人々は思う(30節)。生の木さえ、こうされるのであれば、枯れた木はいったいどうなるのだろうか・・・(31節)。生の木とは、神にしっかりと根付いている者のこと、つまりイエス様のこと。そのイエス様でさえ、今、このように十字架という神の裁きを受けるのであるから、神から離れて生きている枯れた木であるあなたがたは、どんなに厳しい裁きを受けることになるか・・・私を見て、そのことを知りなさい、そのことに涙しなさいと、イエス様は言っておられるのだ。イエス様に付き添っていた婦人たちは、十字架を担うイエス様のお姿に「 おいたわしや 」と同情の涙を流していた。しかしイエス様は、わたしではなく、本当の自分の姿を見て泣け、「 本当の自分の姿に気づけ・・・枯れ木であるあなた自身に・・・」と言われるのである。

神から離れている枯れ木の姿、それは私たちの具体的な生活の中で、どういう姿として現れてくるのだろうか。たとえば、私たちは日々、いろいろな決断をしながら生きている。この仕事を引き受けるか、否か。このことをどのように処置するか。子どもの進路をどうするか、家族のことをどうするか・・・、それらの小さな決断の積み重ねが私たちの生活を造っていく。そういうとき、私たちの決断は、これとあれ、どちらが自分にとってメリットがあるか、ということが判断の基準になっているかも知れない。だが、神につながっているというのは、そういうところで自分の決断が最後のものにならないのである。自分はこう思うが、神はどう思われるだろうかと、神の御心を問う、神の御心こそが自分の決断の最後のものとなる。それが神につながっているということ。キレネ人のシモンのことで言えば、彼はたまたまその場に居合わせたがために、イエス様の十字架を代わって担がされることになったのだが、「 自分は何とついていないことか 」と思って終わってしまうのか、それとも「 たまたまと言うことの中に、十字架を代わって担ぐことが神の御心かも知れない 」と立ち止まってみるのか・・・。神につながっている者には、そこに「 一呼吸置いて、神のみ心は?と問う 」スペースが生まれるのである。

イエス様は、わたしの姿を見て、本当の自分の姿に気づけ。そしてそれに気づいて涙を流せ、と言われる。しかし、その涙は悲しみの涙では終わらないのだ。なぜならば、自分の本当の姿に気がつくということは、枯れ木になってしまいっている自分に気がついた、というのでは半分なのである。それでは、自分の本当の姿を半分しか気がついていないのである。本当の自分に気づくというのは、枯れ木になってしまっている自分、滅びざるを得ない自分が、実はその滅びからすでに救われている、そういう自分に気がつくということなのだ。「 生の木さえ、こうされるのなら、枯れた木はいったい、どうなるのだろうか 」と語りながら、イエス様は今、枯れ木を背に負っておられるではないか。十字架がどんな材木で作られていたかは分からないが、確かに言えることは「 十字架は枯れた木で作られていた 」ということ。枯れた木である十字架を担ぐイエス様のお姿は象徴的であって、それは枯れた木である私たちを背負ってくださるということ。枯れた木が受けるべき神の裁きを私たちに代わって、すべてを背負ってくださるということ。預言者イザヤが語った「 あなたたちは生まれた時から負われ・・・同じように、わたしはあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう 」という言葉の向こうにイエス様の十字架を背負うに背中が見えてくる。十字架の道行きの主のお姿を深く見つめ、思い巡らすことを通して、私たちが本当の自分の姿に気がつくこと。そのとき、イエス様を見て流す涙の意味は大きく変わる。「 おいたわしや 」という同情の涙ではなく、悔い改めと感謝から生まれる喜びの涙となる。 2013年6月30日)