2013年7月1日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月1日~7日

7月1日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章1節~18節
  伝道者パウロに、報酬を出すか出さないかという議論が教会の中にあったようです。そのために、パウロは一切の報酬を受け取らないでコリント伝道をしたようです。パウロには報酬を受け取る権利があった(6節~12節)のですが、その権利をあえて行使しなかったのです(12節、15節)。パウロは、報酬を受け取ることで問題が起きて、かえって福音が宣べ伝えられなくなるなら、報酬を受け取らない方がましだと考えたのです。福音宣教は、パウロにとって「 そうせずにはいられない 」(16節:原語では「 その強制が私の上に置かれている )神の定めだからです。パウロは自分に対する神の定めを愛して、喜んで受け入れていたのですね。私たちの人生に欠けていること、それは自分に対する神の定めを受け入れ、それを愛して生きることなのかも知れませんね。それは必ず、喜びにつながります。

7月2日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 9章19節~27節
  福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それはわたしが福音に共にあずかる者となるためです 」(23節)。福音を伝道する者には大きな楽しみがあります。それは、自分が福音を伝え、救いに与らせることのできた人といっしょに、自分も福音の恵みを受けることです。自分はとっくに福音をよく分かっていて、別に新しく感動もしなくなったけれども、その人には新しいものだ、と言うのではありません。福音は、人に伝えれば伝えるほど、伝える者にとってもますます福音になる、すでに与っていた福音の喜びが増してくるものなのです。これは不思議な経験ですが、確かなことです。出し惜しみせず、使えば使うほど新しくなるのです。

7月3日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章1節~13節
  13節の言葉は、よく知られた有名な御言葉です。私たちの遭う試練で最も厳しいものは、神の真実さを疑いたくなるような試練でしょう。1節~10節のイスラエルの先祖たちは、神を試みるという過ちを犯した事例として登場しています。彼らは、神の真実を試すような疑いを持ち、不平を口にしたのです。神なんか信じていられない、信じたところで何の役に立つか、と。しかし、そこで神を捨てるのであれば、滅びもやむを得ないでしょう。すべては、試練から逃れようとするあなたの知恵や工夫にかかっているのではなく、神の真実さにかかっているのです。神の真実さを信頼し抜けば、試練に耐え、それを逃れる道は現実のものとなります。

7月4日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章14節~22節
 偶像礼拝を避けなさい(14節)。神ではないものをまるで神であるかのように拝むこと、それが偶像礼拝です。日本では、様々な偶像が神のように祭られています。本来、神はただ一人であり、偶像の神などいないのだから神社等に参拝しても問題ないと考えるかも知れません。しかし、パウロは言います。偶像は確かに神ではないが、偶像の背後に悪霊が働いているのだと(20節)。悪霊はイエス様を試みて救い主の働きから堕とそうとしましたね(マタイ4章)。悪霊はイエス様とわたりあった大敵です。だから「 戦え 」ではなく、「 避けよ 」と言われているのです。悪霊の力を侮ってはいけない。占いやオカルトも同じ類いのものとして避けましょう。

7月5日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 10章23節~11章1節
   ここでは、8章7節~13節の偶像のお肉の問題がもう一度取り上げられています。パウロは、全ての事が許されていることを認めます(23節)。自由なのです。しかし、その自由がどの方向に向けられるかが大事だと言います。自分は何をするか(肉を食べるか否か)?他者の心を神から引き離してしまわないように、という方向で自分のすることを決定するパウロ(33節)。しかし、これを実際の生活の中で、いろいろな出来事にあてはめて判断して行くことは、とっても難しいことです。イエス様に思いを集中し、そのなさることをなぞるように、まねる訓練を重ねるしかありませんね(1節)。そのようにして判断力を身につけるしか、ありません。

7月6日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章2節~16節
  頭へのかぶりものが問題になっています。ここで何を聴き取るかは、今日でも議論百出、解釈は様々です。ある教会では婦人の役員を認めない根拠にもします。しかし、問題の核心は礼拝時の祈りの姿勢だと思います(4節~5節)。女性はかぶりものを取って神の前に出て、男性はかぶりものをつけて出ていたらしい。普段の生活では女性はかぶりものをつけ、男性はつけていないのです。それなのに神の前に出るときだけ、いつもと違う自分となって現れる。おかしくないだろうか?いつもの自然なままで、ありのままの自分で神の前に出るべきでしょう。飾ったり、隠したりすることを神は求めておられない。そう言ってパウロは神の前に出る心の姿勢を問うているのです。神は、ありのままの私たちを愛していてくださる方なのです。

7月8日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章17節~22節
 コリントの教会に手紙が書かれた時代は、まだ日曜日が休日ではなく、教会の人たちは日曜日に朝早く集まり礼拝をし、仕事を終えるとまた集まって夕食を共にし、夕食の最後のところで聖餐を行っていました。愛餐と聖餐をいっしょにしたのです。ところがお金持ちの人は、長時間の仕事をしないので早く帰って来ます。そして、まだ仕事をしなければならないでいる貧しい人たちが帰って来る前に、先に自分勝手に食べてしまうのでした(21節~22節)。パウロは、それを厳しく戒めています(20節)。仲間に対する愛を欠いているからです。私たちが聖餐に与るとき、聖餐を見守るだけの求道の友を思い、愛と祈りをもって聖餐に与りましょう。