2013年7月9日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  7月8日~14日

7月8日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~26節
   23節から26節は、教会が聖餐(主の食卓)を行う根拠とする聖句です。主イエス様は最後の晩餐の席で弟子たちに「 このように行ないなさい 」(24節、25節)と言われました。それはイエス様の遺言でもあり、私たちが重く受け止めなければならない言葉です。聖餐に与ることに重きをおきましょう。聖餐に与ることを疎かにして、説教や信徒相互の交わりによって健やかな信仰生活が成り立つと考えることはできません。主の遺言を無視しているわけですから・・・。聖餐に与っているとき、目に見えない神が私たちを恵み、祝福してくださっているのです。

7月9日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章27節~34節
   聖餐はイエス・キリストが私たちの罪を贖うために、十字架の上で身代りとなって死んでくださったことをあらわしています。ですから当然、聖餐に与るふさわしさというものが生れます。それは、誰からも非難されないような立派な信仰生活を送っている、ということではありません。そうではなく、私はキリストの十字架の贖いがなければ生きることができない罪人であると心から思っている、ということです。自分は罪深い歩みをしてしまったので、「 今回は聖餐に与るのをやめておこう 」と考えるのは謙遜のようですが、間違っています。自分は自分の力でもって、神の御前に恥じない生活をすることができるのだという考え方がその根底にあるからです。謙遜に、砕かれた魂をもって聖餐に与りましょう。

7月10日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章1節~3節
 コリントの教会は、聖霊の賜物(神様から与えられた能力などを賜物と言います)が豊かな教会でした。聖霊の賜物には、異言の賜物や癒しの賜物など、いろいろあります。異言の賜物とは、一般の人には理解できない言語でもって神様を賛美したり、祈ったりする能力です。今日でも、このような賜物が与えられてこそ、聖霊がその人のうちに働く本当のクリスチャンなのだ、と考える人たちがいます。しかしパウロがあげる最も大切な霊の賜物、霊の働きは、それとは違います。私たちが「 イエスは主である 」と告白できること。それこそ、聖霊の賜物を受けていることの最たるしるし、最も確かなしるしなのです(3節)。たとえば、私たちがいかなる厳しい状況に置かれても、「 この状況を支配しておえられるのは・・・ではなく、主だ 」と信じ、その状況を受け止めることが出来るのも、聖霊のお働きなのです。

7月11日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章4節~11節
 私たちは、自分の賜物が貧しいとか、豊かだとか、表立って口にはしませんが、腹の中ではそう考えているところがあります。そういうものが劣等感や優越感になって、浮き沈みの生活を送らせるのです。しかしパウロは言います。「 一人一人に霊の賜物が現れるのは、全体の益となるためです 」(7節)。教会では、一人一人に与えられている賜物は、教会全体のために与えられている賜物として見ることができます。つまり、自分には音楽の賜物が直接与えられてはいないけれども、あの人を通して実は私にも音楽の賜物が分かち与えられているのだと受け止めるのです。そうです。あなたの賜物は、あなたのためだけでなく、私のための賜物でもあるのです。だから自分と他の人の賜物を比べて浮沈する必要など、全くないのです。

7月12日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章12節~14節
 人間のからだは、たくさんの細胞からできています。その一つ一つの細胞は個別に命を持って生きているのですが、それが集まってひとりの人間の命を造っています。それと同じように、信仰を持って生きている一人一人が集まり、互いをいたわり、支え合って、ひとつの命を造る。そこにイエス・キリストというひとりのお方が生きておられることが見えてくる。それがキリストのからだなる教会の姿です。教会を訪れる方が、ここには確かにイエス・キリストが生きておられると感じてもらえるような教会の交わりを造りましょう。今生きておられるキリストのお姿に、触れることができるような交わりを。

7月13日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章15節~26節
 霊の賜物は、人によって違います。人によっては、「 自分は何の役にも立たない、少しの賜物しかない 」と思うかも知れません。24節は、神がそのような人を引き立てられるのだ、と言っています。それは、「 自分の欠けのために苦しんでいる人を愛をもって覆ってあげる人を呼び覚ますため 」です。教会は、格好の悪い部分を隠すのではなく、それを引き立たせて覆う愛を呼び覚まそうとされる神の要請に応えて立つのです。その人の痛みを自分の痛みとして受け止め、そのようにしてその部分を尊ぶのです(26節)。あなたの賜物は、そのために与えられているのです。

7月14日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 12章27節~31節a
   あなたがたはキリストのからだであり、また、一人一人はその部分です(27節)。そう語ったパウロは、教会の中の様々な賜物を持った働き人について言及していきます(28節~30節)。一人一人がそれぞれに違った賜物をいただいています。それをお互いの益のために用いるのですが、賜物を用いるにはいつも危険がともないます。自分の賜物を誇るような自己主張となったり、相手を卑下する非難につながったりすることがあります。だからパウロは、「 あなたがたはもっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい 」(31節a)と奨め、そのあと13章から「 」について語り始めるのです。そうです。「 」という大いなる賜物に根差してこそ、私たちの賜物は正しく用いられるようになるのです。