2013年7月1日月曜日


先週の説教要旨 「 底知れぬ罪、底知れぬ愛 」 ルカ23章13節~25節

今朝の箇所は、ローマの総督ピラトの前でイエス様の死刑判決が下される場面で、「 十字架につけろ 」と叫ぶ人々の声が大きくなって行く箇所である。ここを読んでまず驚かされるのは、何と言っても民衆の変わりようだと思う。この民衆は数日前、「 主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光 」と言ってイエス様を迎え入れた人々だ。それからまだ5日しか経っていないのに、一転して「 十字架につけろ 」と叫んでいる。この豹変ぶり、一体、何が起きたというのか。イエス様は、かつてこの民衆をご覧になったとき、飼う者のいない羊のように弱り果てていると言って、深く憐れまれたのである。イエス様からそのようなまなざしを注がれていた人々が、ここではイエス様を「 十字架につけろ 」と叫んでいる。イエス様に死刑に当たる犯罪は何もないと判断したピラトは、鞭で懲らしめて釈放しようと提案する。だがそれを人々は突っぱねる。人々は、一斉に「 その男を殺せ。バラバを釈放しろ 」と叫び出す。ルカ福音書巻末に17節の言葉が記されている。写本によっては、この17節は存在しない。だから、新共同訳では巻末に書かれている。その17節によると、祭りの度ごとにピラトは囚人を釈放してやらなければならなかったらしい。恩赦である。そこでピラトは、このイエスと言う男を恩赦で釈放してはどうか、という提案をしたのである。もともと罪がないのだから、恩赦と言うのもおかしな話だが、この男を解放するにはこれしかないと思ったのであろう。それでも人々の「 十字架につけろ 」という叫びは大きくなり、ついにピラトは人々の要求を受け入れる決定をしてしまう。

なぜ、人々はイエス様を処刑することをこれほど執拗に求めたのか。人々は政治的な革命を好んだのであって、イエス様が伝える神の革命を求めてはいなかったのか・・・。それも一理あろう。ルカはその理由を明確にしていないが、マタイとマルコの両福音書は、それが「 ねたみ 」によるものであったと、はっきりと記す。祭司長たちだけでなく、人々もまたねたんだのだと書いてある。カトリックの信仰を持っておられた作家の遠藤周作が「 死海のほとり 」という小説の中で、そのねたみを明らかにしようと試みている。十字架刑を執行するローマの百人隊長が刑を執行しつつ、ふと思う場面があり、彼は「 もし、この人が十字架の上から、このような不合理な刑罰を与えた人間たちに、愛の言葉ではなく、憎しみと怒りの言葉を吐いてくれたなら、自分の心も楽になるのに・・・ 」と考えるのである。聖書には、そんなことは書かれていないのだが、遠藤周作はねたみをそのように解釈したのだ。すなわちこういうことである。イエス様は、愛するということを人々に教えるだけではなく、実際に自分も愛してみせた。言うだけでなく、やったのである。そのイエス様が、「 あなたも愛してご覧。同じように生きてご覧 」と、声をかけ始める。人間とは不思議なもので、ちゃんと語った通りに生きている人が目の前にいて「 あなたも同じようにやってみなさい 」などと言われると、その人を煙たく思うようになるのである。その通りにできない自分の弱さを正当化することができなくなるから・・・。そして、その人に目の前から消えてほしいと思うようになる。それが人々の心の中に生じたイエス様への「 ねたみ 」だと、遠藤周作は解釈したのである。私たちは愛されたくて、愛したくて、愛ばかりを考えているくせに、実際に、人を愛するだけで生きている人間が存在していては、本当は困ってしまうのである。そういうひねくれた心を持っている。人間の心は、複雑で恐ろしい。ルカもねたみが本当の理由であることを知っていたのであろう。だが、その理由を書かなかったのは、人間の心の中にある罪はいかに不可解な、分からない、まさか・・・と思うようなことをしてしまう底知れぬ恐ろしいものだということを伝えようとしたからではないだろうか・・・。人は何をしでかすか、分からない。そこに人間の罪の底知れぬ恐ろしさがある。罪、それは不可解なものであって、自分の中にありながら、一度、それが頭をもたげると自分でコントロールがきかなくなる。そこに人間の罪の深さ、底知れぬ罪の恐ろしさがある。
 そんな人々をイエス様はどのように見ておられたのだろうか。「 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた 」(25節)とある。人々はイエス様を好き勝手に扱うことができた。なすがままにできた。だが、ただひとつだけ、イエス様にさせることができなかったことがある。それは、そういう仕打ちを与えている人々に対して憎しみの心を抱かせることであった。それだけは、好きなようにはできなかったのだ。11節にあるように、あざけり、侮辱し、派手な衣を着せ、ユダヤ人の王ばんざいと馬鹿にし、さすがにこんなことまでされたら誰だって、憎しみの言葉のひとつやふたつ口にするに違いないと思われることをしたのに・・・。これもまた恐ろしいほどの愛である、底知れぬ愛ではないか。底知れぬ人間の罪を底知れぬ愛が包み込もうとしている。人々を見て飼う者のいない羊のように思われたこの方の憐れみの心を、憎しみへと変えさせることは誰にもできなかった。底知れぬ罪に底知れぬ愛が勝利した。私たちの罪に神の愛は打ち勝つ。