2013年6月10日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月10日~6月16日

6月10日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章4節~9節
   パウロの手紙は、口述筆記でなされています。パウロが語り、傍らで誰かが筆記したのです。パウロは、最初の挨拶に続いて何を書こうかと迷ったことでしょう。とにかくコリントの教会は、問題の多い教会でしたから・・・。しかし、パウロはあなたがたが神の恵みを受けていることを感謝することから始めます(4節)。そして、その恵みを具体的に挙げてみます(5節~9節)。パウロの問題解決法の原点、それは「 あなたがたはすでに恵みを受けている 」と、すでに神の御手の中にある自分たちに気がつかせることでした。私たちも様々な問題に直面する時、この視点からの見直しが必要でしょう。

6月11日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章10節~17節
  コリントの教会は、教会内部で分裂してしまっていたようです。パウロを支持するパウロ派、ケファ(ペトロのこと)派、アポロ派、キリスト派(??)と言った具合です(12節)。どの先生から洗礼を受けたかで、教会員が分裂してしまったのです(13節~16節)。パウロは言います。「 キリストは幾つにも分けられてしまったのですか 」と。分派は、十字架の上で肉体を裂かれたキリストを再び、分けてしまうことなのだと言うパウロ。ここには、痛みの伴う教会内の問題を、キリストがどれほどの痛みを感じつつ、これをご覧になっておられるか?というキリストの視点からものを見ようとする姿勢がありますね。私たちもキリストのように考え、キリストのように感じる、キリストの視点からの見方を大切にしていきたい。

6月12日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章18節~25節
   ユダヤ人はしるしを求めます(22節)。しるしは、奇跡という意味の言葉で、「 奇跡を起こすほどの力があることを見せて見よ 」という要求なのです。このような姿勢は、自分が神様の力を評価し、自分が納得できるほどの力でなければ、私が従うべき神様には値しないという傲慢な考え方に結びつきます。私たちは神様とどのような関わりを持っているでしょうか?しかし、神の力と知恵は、自分の知恵で測り、神をあなどるような者を滅ぼす形ではなく、かえってその人を生かす形で現されました。それがイエス・キリストの十字架の出来事であり、「 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い 」(25節)とは、そのことです。主の憐れみに満ちた知恵と力とを私たちは信頼してよいのです。

6月13日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章26節~31節
 コリントの町は、自由人よりも奴隷の人口の方が多く、教会もそれを反映して奴隷が多く集まる教会でした。しかし教会の中では、奴隷も自由人も区別はなく、社会では奴隷でありながら教会では長老になっているという事も実際にあったと伝えられています。教会の中では、社会の価値観と全く異なる驚くべき事が起きていたのです。しかし教会生活が長くなると、そのような事も驚くべき事として見られなくなり、新鮮さを欠いた無感動の病に毒されることがあります。「 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい 」(26節)とは、いつも恵みの原点に立ち帰るように、とのパウロのすすめです。

6月14日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章1節~5節
  パウロがコリントの町で伝道した時に、どのように伝道したかが語られています。彼は、「 衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした 」(3節)。彼は、自分の伝道の言葉が人々の心をとらえるか?不安にかられたのです。パウロが十字架の言葉に集中して語っていく時、人々はそれだけですか?と問い返すかも知れない。パウロの知識をもってすれば、そのような人々の要求に答える多くの言葉を語れたことでしょう。しかし、パウロは十字架につけられたキリスト以外は知るまい、語るまいと決めたのです(2節)。それは、人々が愚かだと思うような十字架の言葉こそが、神の力が圧倒的に働く場だからなのです。十字架につけられたキリストの言葉に根差そうとする生活は、神の力が圧倒的に働く場となります。

6月15日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 2章6節~16節
   霊は一切のことを、神の深みさえも究めます 」(10節)。聖霊は、神の霊ですから神の深みを究めるのは当然と思うかも知れません。しかし、パウロが言いたいことは、その聖霊が私たちにも与えられ、それによって神からの恵みを知ることができるようになった(12節)と言うことです。自分は聖霊が与えられていないのではないか?といぶかることはありません。キリストの十字架の出来事を恵みだと知る者は、確かに神の霊を受けているのです。私たちは、聖霊の働きによって、さらに神の恵みを深く知ることができるし、それが許されているのです。聖霊がいよいよ私たちの内に豊かに働かれることを祈りの中核としましょう。

6月16日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章1節~5節
 パウロは語ります。「 あなたがたには、霊の人ではなく、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である 」(1節)と。とても厳しい言葉です。コリントの教会には豊かな賜物があり、自分たちこそは大人であるとの自負がありました。パウロはそのような人たちに、あなたたちの信仰は子どもだと言うのです。それは分派活動をし、ねたみや争いを捨てないからでした(3節~4節)。彼らは「 信仰において行動している 」と口では言いながら、実はちっとも神様を大切にしていないと言うのです。反対に信仰の大人は、人間の手によるすべての働きの背後に、神様のお働きをしっかりと見ようとします(6節~7節)。分派の相手の背後にさえも。