2013年6月18日火曜日


先週の説教要旨 「 主イエスの沈黙 」 ルカ22章63節~23章12節

  イエス様が十字架の死へと向かわれる受難の物語を読み進めている。祭司長たちに逮捕されたイエス様は、裁判にかけられる。今日はその裁判の箇所。それにしても何という皮肉なことか、イエス様が裁かれた。本来ならば、裁く方は神であるイエス様なのに、イエス様が人間の手によって裁かれている。イエス様が裁かれたこの箇所には、ずいぶん多くのイエス様に向けて「 信仰告白 」の言葉がある。67節「 お前がメシアなら 」、70節「 では、お前は神の子か 」、そして23章3節「 お前がユダヤ人の王なのか 」。すべて尋問の形だが、ここには確かにイエス様に対する信仰を私たちが告白する時に用いられる言葉がある。イエス様はメシア、神の子、そして王・・・。ピリポ・カイザリヤでイエス様がペトロにお尋ねになったことがあった。「 人々は私のことを何者だと言っているか ・・・あなたはどう思うか 」と。ペトロが「 あなたこそ、メシア、生ける神の子です 」と答えると、イエス様は「 あなたの上にわたしの教会を建てる 」との約束を宣言された。あなたがしたその信仰告白の上に、私は、わたしの教会を建てるのだと・・・。後にこのときの「 あなたこそ、メシア、生ける神の子です 」というペトロの告白の言葉は、教会の信仰の要となる告白になった。それほどに重い、信仰告白の言葉がここには出てきているのである。しかし・・・何と痛烈な皮肉か、イエス様を慕っていた者たちの口によってこのような告白がなされたのではない。イエス様を十字架にかけて殺したい、そう思っている人たちの口からこれらの言葉が出たのである。しかもこの告白の言葉が、イエス様の有罪、すなわち「 神への冒涜罪 」を確定させるための鍵の言葉になっているのだ。本来、イエス様が救い主キリストであるかどうかを問うということは、もっと真剣な、自分の生き方、人生の全てがそこにかかっているような問いであるはず。その問いへの答え次第で、自分の生き方が変わり、新しい人生が始まるような問いであるはず。そういう人生をかけた真剣さがこの問いには全くない。だからイエス様はお答えになられない。

 元来、神様は私たちが信頼すべき方であって、私たちが裁く相手ではない。だがここでは全く反対のことが起こっている。だが、よくよく自分自身のことを顧みてみると、私たちもまたしばしば神を裁く過ちを犯してしまうのではないか。たとえば、説教を聞くということ。説教というのは、牧師という神によって召し出されたひとりの人間がしていることだが、そのときに、これを牧師という一人の人間の語る言葉として聞くのではない。このひとりの人間の口を通して、神が私たちに語っておられるのだ、そういう信仰をもって聞かれる言葉なのである。しかしながら、私たちは説教を聞きながら、自分が気に入ったことだけを神の言葉として聞こうとしてしまう。つまり、そこで裁いているのである。気に入った言葉は持って帰るけれども、気に入らない言葉はそこに置いて帰る。本来は、自分に気に入ろうが、気に入るまいが、これは神の言葉として、神が与えてくださろうとしている言葉として、神への信頼に立って聞く言葉なのである。しかし、それを自分が気に入るか、気に入らないか、ということで裁き、より分けて、聞こうとしてしまう。それもまた、神を裁くことなのではないか。神が語られる言葉であるならば、それをアーメンと言って受け止めます。それが信仰・・・。今朝の教会学校は、モーセがエジプトの王パロのもとに遣わされ、イスラエルの民を解放せよと、訴える場面。自信のないモーセに神は杖を持たせ、それを蛇に変えるという奇跡を授けた。だが、その奇跡を見てもパロは心を動かさず、かえって頑なになった。大人は、何でこんな役にもたたない奇跡を神は与えられたのかと、考えてしまうかも知れない。だが説教を聞いた1年生の子どもの受け止め方は全然違った。パロはモーセを通して聞かされた神様の言うことを聞かなかった・・・。でも僕は聞くよ。神様に造られたのだから・・・と言ったのである。神様に造られた自分なのだから、神の言われることを聞くのは当然だというのである。これぞ、幼子のような信仰だと、心を打たれた。幼子は全幅の信頼をもって神の言葉を聞く。これは役に立つ、これは役に立たないと、裁きながら、役に立ちそうな言葉だけを聞くようなことはしない。

 もうひとつ心に留めたい。ヘロデの裁判で、イエス様が沈黙されていたこと。なぜ、弁明なさらないのか。一般に、裁かれる人間はたとえ訴えられている通りの罪を犯しているとしても、何とかして言い逃れの道を探すもの。弁解する。少なくとも罪を軽くしてもらおうと必死になる。しかしイエス様は黙っておられる。なぜか。旧約時代の預言者イザヤは、その沈黙の秘密をこのように語ってくれていた。「 彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。・・・わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった 」。イエス様の沈黙から「 私はあなたがた罪人のために来たメシアだ。だからこれでいい 」との声が聞こえる。
                                                  2013年6月9日)