2013年6月10日月曜日


先週の説教要旨 「 恐れて裏切り 」 ルカ22章47節~62節

家で家族と話をしていて、ひょいと信仰のことを聞かれる。「 教会では、こういうことをどう教えているのか・・・」。それはね、と一応答えながら、心の中ではどうも自分が動揺していると感じる。それはね、と言ってしゃべっていることに自分は確信を持てていない。しゃべりながら、自分は本当に今、しゃべっていることを信じているだろうかと不安になる。そういう経験をなさったことがあると思う。自分の中に不確かさがあり、それゆえに私たちは確かさを求めようとする。しかし、そういう確かさを自分の中に求めることはやめた方がいいのである。そうではなくて、不確かな自分さえも、神様はとらえていてくださるし、そういう自分さえも神様は確かに用いていてくださる。自分の確かさではなく、神様の確かさを信じる、それが信仰の急所なのである。今朝のペトロの物語も、自分の確かさではなく、神の確かさに信頼することを語っている物語である。

ペトロは捕らえられたイエス様のあとを追い、大祭司の屋敷へと入り込む。このとき、ペトロには相当の覚悟があった。敵の本拠地に単身で乗り込んで来たのだから。ペトロの覚悟を支えていたのは、「 主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております 」と言ったあの言葉。一度は、イエス様を見捨てて逃げ出したものの、イエス様に自分の覚悟は確かなものであることを証明するためにも、勇気を出してイエス様のあとを追って来た。しかし、2度ならず、3度までもペトロはイエス様との関係を否定してしまう。1度目、2度目のときは、まだ自分はイエス様との関係を決定的に否定したとは思っていなかったのだろう。周りの目をうまくごまかしながら、イエス様に決定的な場面が訪れたら、自ら皆の前に出て行って「 私はあの人の弟子だ 」と言って、イエス様を守ろうと立ちはだかるつもりだったのかも知れない。しかし3度目にペトロが否認をした時、ペトロは初めて自分がイエス様を否認したことを認めざるを得なくなった。なぜか。3度目のときは、主が振り向いてペトロを見つめられたからである。「 主は振り向いてペトロを見つめられた 」。これはルカ福音書だけが書き残している言葉で、「 振り向いて 」という言葉はルカでは主語がいつもイエス様で、多くの場合、イエス様が振り向かれた後に大切に教えを述べ始められる。ところがここでは、イエス様は一言もおっしゃられない。ただ、じっとペトロを見つめられるだけ。しかしペトロはこのまなざしにとらえられたときに、イエス様の無言の語りかけを聞いた。そして「 今日、鶏が鳴く前にあなたは三度、私を知らないと言うだろう 』との主の言葉を思い出した。思い出したというのは、忘れていたということはなくて、その言葉を無視したということだろう。誰だって自分の弱さを指摘する言葉をあまり聞きたくはない。自分で自分の弱さや欠点を口にすることはできる。けれども、それを自分以外の人に言われると、しゃくにさわって受け入れがたくなってしまうのが私たちではないか。

 しかしイエス様のまなざしによる無言の語りかけで、ペトロは自分がイエス様の言われた通りの人間だということをどうしても認めざるを得なくなってしまった。自分の覚悟は不確かなものでしかなかった。イエス様の言葉こそが確かだったと・・・。ペトロは外に出て激しく泣いた。だからと言って「 自分は悪かった。間違ったことをした 」と、大祭司の中庭に戻って来て「 自分もあの人の仲間だ 」と言ったのではない。そこに不確かさを抱えた私たち人間の悲しみが極まっていると思う。

だが、イエス様がペトロに向ける思いは、挫折したペトロを冷たく見捨ててしまうものではない。今朝は、民数記6章のアロンの祝福を合わせて読んだ。「 願わくは主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれるように 」。旧約聖書は、神が御顔を向けてくださることこそ、神の祝福だと語る。それゆえ詩編には、御顔を向けてください、御顔を背けないでくださいとの祈りが頻出する。神が御顔を向けてくださるとは、あなたを祝福しようとなさる神の意志のあらわれであることをユダヤ人は知っていた。ペトロは・・・イエス様が振り向いて御顔を向けてくださった、そして無言のまなざしを向けてくださったことに、変わることのない自分への主の祝福を感じたのである。そこに涙があふれた。ペトロはこのとき、「 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った 」という主の言葉もまた、思い出していたかも知れない・・・。不確かさを抱えるがゆえに、転ぶペトロ。そのたびに主の愛の確かさによって立ち上がらせていただける、それが私たち信仰者の歩みなのである。「 七転び八起き 」という言葉は、起き上がりが1回多い。これは赤ちゃんが生まれて初めて立ち上がったときのことを1回と数えるかららしい。赤ちゃんの最初の立ち上がりは、赤ちゃんの自力によるものではなく、無力のままに生まれてきても、周りの人たちの支えがあって立ち上がれたということ。そしてそれ以降の7回の立ち上がりもすべて、守りの人の支えがあっての立ち上がりを示しているそうだ。これは私たちの信仰によく似ている。不確かさを抱える私たちは7の70倍も倒れることがあろう。だがそのたびに主の確かさが7の70倍も私たちを立たせてくださるのである。2013年6月2日)