2013年6月4日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月3日~6月9日

6月3日(月)マタイ27章57節~61節
   アリマタヤ出身のヨセフ。彼は金持ちで、まだ誰も入っていない新しい墓を所有していました。彼は、長くイエス様のことを思っていましたが、恐れからそれを公に告白出来ないでいました(ヨハネ19章38節)。しかし、イエス様の死に直面したとき、思い切ってイエス様の遺体を引き取り、自分の墓に収めようと決心したのです。最後の最後で勇気を出したヨセフの墓は、イエス様の復活の光が輝く場となりました。人を恐れるあなたの生活も、イエス様のためにと、少し勇気を出して一歩踏み出せば、そこはイエス様の復活の栄光が輝く恵みの場としていただけるのです。消極的な信仰でも神様はちゃんと働く場所を用意していてくださいますよ。

6月4日(火)マタイ27章62節~66節
   イエス様の復活は、ある人々にとっては「 前よりもひどく惑わされることになります 」(64節)という不安をもたらしました。イエス様のことを「 人を惑わすあの者 」(63節)と言い放った人々は、不安にかられ、良心のうずきを押さえ込むのに汲々としたのです。しかし、信じる私たちにとっては、復活のイエス様に出会うことは、大きな平安をもたらします。死んだらすべてが終わりという考えが根底から覆され、その日から世界観がまったく変わってしまう、見るものすべてが新しく見える素晴らしい出来事となるのです。神があなたと共におられるのですから。死の恐れから解放されている者ほど、この世で強く、そして自由な者はありません。

6月5日(水)マタイ28章1節~10節(Ⅰ)
   復活の日の朝、2人のマリアは一路イエス様の遺体の収められた墓に向かいました。葬りが安息日間近であったため、正式な埋葬処理をしてあげられなかったからです。イエス様を思う気持ちが2人の婦人を早朝から動かします。しかし実のところ、2人の婦人の思いをはるかにしのいで、イエス様ご自身が婦人たちのために大いなる事、そう、「 復活 」をしていてくださったのです。私たちがイエス様のために何かをしてさしあげようと心を定めて動き出すとき、反対にイエス様の方が自分のために恵みを用意していてくださっていたのだと気づかされることがあります。主は、いつも私たちに先立って事を進めていてくださる方です。

6月6日(木)マタイ28章1節~10節(Ⅱ)
  行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる 」(10節)。ガリラヤはペトロら漁師であった弟子たちがイエス様と出会い、その生涯を主に捧げて歩もうと決心した場所です。今、弟子たちはイエス様の死を前にして、その夢が破れ、師を捨てた自らのふがいなさの故に散り散りになってしまいました。イエス様はそのような弟子たちをもう一度ガリラヤに呼び集められます。そしてもう一度、彼らに弟子としての再スタートを切らせようとしておられるのです。復活の主は、私たちのおぼつかない弟子の歩みを何度でも再スタートさせてくださる恵みのお方のです。いつも主のもとへ回帰しましょう。

6月7日(金)マタイ28章11節~15節
  マタイ福音書の構造は、キリストの復活の出来事(1節~10節)の前後に、復活を否定し、覆い隠そうとする人々の企てが記されています(27章62節~66節と28章11節~15節)。まるで左右から挟み込んで、その出来事を隠してしまおうとするような空しい振る舞いです。しかし、番兵(27章66節)も、封印も(66節)、多額の金も(12節)、デマも(13節)、復活の出来事が宿す力には、圧倒されてしまいました。主の復活を伝える教会を今日も主は同じように人々の策略から守ってくださいます。私たちの教会も、この復活の力に守られています。
 
6月8日(土)マタイ28章16節~20節
   復活のキリストが言われた「 行って 」(19節)、「 授け 」(19節)、「 教えなさい 」( 20節)は、原文ギリシャ語ではすべて「 ~し続けなさい 」という継続を表す言葉になっています。福音宣教の使命に世の終わりまで燃え続ける教会こそが、「 わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる 」(20節)という約束を、深い慰めとしてかみしめて行けるのです。それにしても「 しかし、疑う者もいた 」(17節)という証言は、福音の宣教を託され、これから出て行こうとする群れにとっては衝撃的なことですね。疑いを持ちつつの宣教なんて・・・大丈夫?と思ってしまいます。でも、そのような疑い、確信のなさという問題を内包しつつも、教会は宣教のために遣わされます。「 主が共にいてくださる 」ということによって、その問題をすでに乗り越えていると、主は見ておられるからです。

6月9日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章1節~3節
   今日からコリントの信徒への手紙Ⅰを読みます。一般に手紙の序文を読むと、差出人と受取人の関係が分かるものです。差出人パウロと受取人コリントの教会の信徒は、イエス・キリストを主とし、主を呼び求めるという一点で結ばれています(2節)。コリントの教会は、問題の多い教会でしたから、この後パウロは手紙の中でたくさんの忠告をします。人に忠告することは難しいことです。「 主の導きに対しては心を開く人である 」と相手を信頼すること(相手の信仰を信頼すること)、そして自分も祈りを込めて語らなければ(3節)、忠告の言葉は相手の心に届かず、かえって関係を悪化させるものです。パウロもコリントの信徒も、互いに相手のうちに御霊が働いてくださることを信じること、そういう信仰のチャレンジを受け止めて進んで行くときに、教会は教会になって行きます。人間的な集まりの域を越えて・・・。