2013年6月4日火曜日


先週の説教要旨 「 御心にひざまずき 」 ルカ22章39節~46節

私たちは礼拝のとき、讃美歌を歌うときは立ち、祈るときは座わって祈る。日本の多くの教会がそうしている。しかし聖書の時代、祈りは立って祈った。立って祈るというのは、私たちの座り込んでしまいたくなるような心が、祈ることによって立ち上がる、そういう心の姿勢を表現しているのかも知れない。立って祈ることが習慣であった時代に、イエス様が「 ひざまずいて祈られた 」ことが書かれている。「 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。『 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください 』 」(41節~42節)。これは、父なる神の御心、すなわち神の意志にひざまずき、あなたの御心に従いますという心の姿勢を表すものなのだと思う。

実はこの祈りを境にして、このあとイエス様の言葉が極端に減る。長い沈黙に入るのだ。その沈黙は、預言者イザヤがイエス様の十字架を預言して言った、「 屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった 」という言葉を思い起こさせる。イエス様はどんな思いで十字架に向かわれたのか、何も話されない。だが、この祈り場面ではイエス様の十字架への思いが前面に表れ出てきている。「 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください 」、それがイエス様の十字架に対する思い。「 この杯 」と言うのは神の怒りの杯。この杯の中を見てみれば、そこには人間の罪に対する神の激しい怒りがふつふつと沸き立っている。聖なる神は、罪の汚れとは共存できない。だからそれを排除なさる・・・。父なる神はイエス様にこれを飲み干すことを求められた。イエス様が、私たち人間に代わって、その罪の罰を引き受けること、そうすることによって人間を滅ぼさずに罪の汚れを排除し、神が人間と共存することができるようになる・・・。イエス様はその神の意志をよく知っておられた。しかしそこには激しい葛藤がある。すんなりと、「 はい、従います 」とは言えない。だから「 父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と言われる。イエス様はここまで、実に堂々とご自分の十字架のことを語って来られた。あるときは、弟子のペトロが十字架の予告をされたイエス様をいさめると、「 サタンよ、退け!」と言ってペトロを叱りつけた。そのくらい堂々と、毅然とした態度で、イエス様は十字架に向かって歩んで来られた。しかしここに来て、恐れ、もだえ、そして、この杯をわたしから取りのけてくださいと祈っておられる。これは、どういうことなのだろうか・・・・。 ペトロがそうであったように、イエス様も死ぬことにおびえ、前言を撤回しようとしておられるのだろうか・・・。

  かつてイエス様の十字架を忠実に再現しようとした映画「 パッション 」が上映された。見てきた方の多くが、「 感動したけれども、所々、多くの血が流れ、目を覆いたくなった 」との感想を言われた。実際、イエス様の十字架では多くの血が流れたことだろう。だが聖書は、イエス様の血が流れたということを一言も書いていない。分かり切ったことだから書かなかったのか。いや、そうではない。イエス様は肉体の苦しみよりも、もっと大きな苦しみを受けておられたのだ、ということを聖書は伝えようとしているのだ。そこから私たちの目線をそらさせないように注意深く、十字架の出来事を伝えているのだ。もっと大きな苦しみ、それは神に見捨てられる苦しみ。このあと、イエス様は十字架の上で「 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか 」と叫ばれる。イエス様は単に肉体の死を恐れておられたのではなくて、神から見捨てられ、引き離され、神のもとから排除されてしまうことを恐れておられたのだ。本当に互いを尊敬して、信頼しあっていた夫婦がいて、その一方が召されるというのは、遺された者は死ぬ以上の苦しみを担うことになる。相手の素晴らしさを誰よりも知っているからこそ、この人と別れることが本当につらいのである。でも、相手の素晴らしさをよく分かっていないならば、それほど辛いことにはならいだろう。イエス様は、誰よりも父なる神の素晴らしさを知っておられたから、私たち以上に父なる神と共にあることの喜びを知っておられたからこそ、この方と引き離されてしまうことが何にも勝る苦しみとなったのである。   「 しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください 」とイエス様は祈られるそのとき、父なる神は一言も語らず、沈黙しておられる。わが子が「 助けて 」と苦しみ、叫ぶのに沈黙し続ける親がいるだろうか。否、父なる神は御子と共に耐えておられるのだ。私たちの救いのために、御子と共にその苦しみに耐えておられる。御子と御父がそのような救いの業を完成させようとしておられるときに、傍らで祈るようにと言われていた弟子たちは眠りこけていた。弟子たちは自分たちの罪を神が贖うために、それほどの苦しみを必要としていたとは全く理解していない。これは私たちの姿。人の罪には敏感で厳しい私たちだが、自分の罪が神にこれほどの思いさせるものであると気がつかない。しかし神は人の思いも手も届かないところで、そんな私たちのための御業をなしてくださった。
                                                  2013年5月26日)