2013年6月18日火曜日


成瀬教会 <聖書日課>  6月17日~6月23日

6月17日(月)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章10節~17節
  建物の土台は、建築家などの専門家でなければ、あまり人目をひかないものです。皆、土台の上にのっかっている部分だけに関心が向いてしまいます。しかし、建物を根底から支えているのは土台なのです。あまり人目につかないけれども、しっかりと建物を支えている、それが土台です。パウロは、私たちの人生の土台にはすでに「 イエス・キリスト 」が据えられているのだと語ります(11節)。その土台は、私たちのうつろいやすい目にはとまりにくいのですが、確かに私たちの人生を根底で支えていてくださるのです。だから、その土台にふさわしい上物(私たちの人生)を建て上げようとパウロは勧めます。

6月18日(火)コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章18節~23節
  だれも自分を欺いてはなりません 」(18節)。これは、すぐ前の17節で「 あなたがたはその神殿なのです 」と言われた言葉とつなげて読めば、「 すでに神の霊が住む神殿となっている自分を欺くな 」と言う意味であると分かります。それでは、自分を欺くはどういう事でしょうか?パウロは、それをこの世の知恵とのかかわりで述べます(18節~20節)。この世の知恵は、「 神などいない 」と言って自らの知恵を誇ります( 口語訳 詩編14編1節参照 )。しかし、キリスト者は、すべてが神のものであることを知っています(22節~23節)。キリスト者がまるで神などおられないかのような生活をしてしまうこと、それが自分を欺くことなのです。「 神を軽んじる生活は、実は自分自身をも傷つける生活になっている 」のです。

6月19日(水)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章1節~5節
  コリントの教会では、パウロ、アポロなどの伝道者たちを裁いて( 評価して )、それぞれに自分の好みの伝道者を支持して分派活動が起こっていました。人を評価することは、ある意味でその人を支配することになります。しかしパウロは、あなたがたに評価されても少しも問題ではない、いやそればかりか自分で自分を評価することさえしないと言います(3節)。私たちの誘惑は、絶えず人々の評価にさらされるし、自分でも自分を評価する心から自由になれないところにあるでしょう。しかし評価すること、されることに心奪われることは、神が喜ばれることではありません。なぜなら、そのとき、すべての人を評価されるお方は、神様であることを忘れているからです(4節)。

6月20日(木)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章6節~13節
  コリントの教会の人々は、神様からいただいた賜物が大きく豊かであったために、非常に高ぶって伝道者たちを裁き、勝手に上に立つ王様になっていました(7節~8節)。そこで、彼らに裁かれ続けているパウロの言葉です。「 わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています 」(10節)。「 侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返しています 」(12節~13節)。侮辱に対して呪いの言葉を返すのではなく、祝福を返す。下に立ちながら祝福するのです。十字架につけられたイエス様をほうふつとさせます。パウロのこの低さの秘密はすべての人の賜物は、神様からいただいたもの(7節)、との受け止め方にあります。心に刻みたい姿勢です。

6月21日(金)コリントの信徒への手紙Ⅰ 4章14節~21節
  そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい 」(16節)。倣うとは、まねることです。「 わたしに倣え 」とは、ずいぶん傲慢な言葉に聞こえるかも知れません。しかし、昨日の箇所で教会の人々の高ぶりを戒め、低きところに立たれたキリストを指し示したパウロの言葉とあれば、決して高ぶりの言葉には聞こえません。そうです。これは、神様の恵みのみによって自分は生かされている、と実感しているからこそ言える言葉なのです。自分の立派さを誇る者には決して言えない言葉です。欠けの多いこんな私でも神様の恵みに支えられて、こうやって生きることができている。主を証しする信仰者の姿は、最後はそこに行き着きます。

6月22日(土)コリントの信徒への手紙Ⅰ 5章1節~13節
  コリントの教会は、教会外の人が聞いても驚くような問題を抱えていました(1節)。しかし、そのような問題が現れてきた時に、彼らは何もせずに放置していました。パウロは一貫してそれを取り除けと言います(7節、13節)。そして主の十字架の出来事によって(7節)、私たちにはすでに罪というパン種のない清い心で過越を祝えるようにされているのだから(8節)、もし、なおそのところで誠実でなければ主の十字架の恵みを十分に受け入れることを拒否することになると言います。主の恵みに応えて精一杯、罪と闘うパウロ。私たちの立つべき所が示されています。

6月23日(日)コリントの信徒への手紙Ⅰ 6章1節~11節
 コリントの教会では、教会内の争い事を一般の裁判所、すなわち信仰を持たない人々に訴えて解決しようとする動きがあったようです(1、4、6節)。そのような事をするあなたがたはすでに負けていると、パウロは言います(7節)。教会の外と内とでは、問題の解決の仕方が違うからです。外の裁判では、どちらかが正義でどちらかが不義という形で決着します。しかしパウロは「 なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのですか 」と問うています。信仰の世界では、相手が間違っていて自分が正しい状況にあっても、そこで自分の正しさを貫いたがために、相手の立ち直りを閉ざす結果となるなら、その対応は誤まりとなるのです。キリストは、どのようにして不義な私たちを立ち直らせてくださったか?これが教会の問題解決法です。