2013年5月27日月曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月27日~6月2日

5月27日(月)マタイ26章69節~75節
   あなたもイエスの仲間だ!と言われて、ペトロは「 そうではない 」と必死に打ち消しています。呪いの言葉さえ口にするというのは、もし自分が嘘をついていたら呪われても構わないと言う意味です(74節)。そんなペトロも鶏が鳴いて、イエス様の言葉を思い出すと激しく泣き出しました(75節)。ペトロは、惨めで、情けなくて、こんな自分なんか、もう投げ出してしまいたい・・・自分自身に絶望しました。そんな自分のことを、イエス様はまるごと知っておられたのだ・・・そう思うと涙があふれたのです。イエス様は、私たちが落ちるところまで落ちて、もう全部投げ出してしまいたいと思う、その地点よりももっと低いところに立っていてくださいます。落ちてくる私たちを受け止めるために。

5月28日(火)マタイ27章1節~10節
   芥川龍之介、太宰治、キリスト者以上に聖書に深い関心を示しながらも、ついに信仰には至らず、自らの命を断って行った人々です。彼らはユダのことがとても好きだったと言われています。ユダの中に自分自身を見る思いがしていたのでしょうか・・・。そんなユダは、最後の最後まで自分自身に固執した人間でした。だから、自分のしたことを赦せないままに、自分で「 方を付けよう 」としました。イエス様に自分を委ねようとはしなかったのです。ユダはイエス様を大祭司に引き渡したことを後悔し、その責めを自分で処理しようとしたのです。しかし信仰というのは、愚かな自分さえも、固執せずにイエス様に引き渡し、委ねてしまうことなのです。ユダとペテロの違いがあるとすれば、その一点に尽きると思います。

5月29日(水)マタイ27章11節~14節
   ピラトの前のイエス様は、まったく申し開きをなさいません。大祭司たちのなすがままになっておられたイエス様は、ここでも不利な証言を前に、沈黙を守っています。ピラトが不思議がるほどに・・・。嵐を静め、死人を生き返らせたあのイエス様が、一言も口を開かず裁かれています。どうしてイエス様は沈黙を守り続けているのでしょうか?彼らの不当な裁判に、どうして声をあげられないのでしょうか?イエス様の沈黙は、父なる神の変わらぬ意志の現れなのです。それは私たちを愛し、救うために貫かれる「 御子に苦しみを負わせる 」という意志です。子が苦しむ時、それを見ている親はそれ以上に苦しんでいます。神はあなたへの変わらぬ愛を今日も貫いてくださる方であると、心に覚えて一日を歩み始めましょう。

5月30日(木)マタイ27章15節~26節
   バラバと呼ばれるイエスとメシアと言われるイエスと、どちらを取るか(17節 )と問われています。バラバもイエスという名前だったのですね。問われた群集は、ユダヤの国を力でローマから解放しようと企てた政治犯のバラバを選択しました(22節)。イエスとは「 主は救い 」という意味の言葉ですが、群集はどんな救い主を求めていたのか、考えさせられます。バラバは、イエス様が身代わりになったことで釈放されましたが、それは私たちのことでもありますね。私たちは、イエス様が私たちの罪の身代わりになられたことで、御赦を受けた者たちですから。

5月31日(金)マタイ27章27節~31節
   ある姉妹から「 つるうめもどき 」のつるで編んだリースをいただいたことがあります。私たちのために生まれてくださったイエス様の誕生を心から感謝しつつ、信仰を込めてこのリースを編んで下さったのでした。総督の兵士たちは、茨で冠を編んでイエス様の頭にかぶせました(29節)。冠は王を象徴するものなのですが、兵士たちはこの冠を「 侮辱 」を込めて編んだのです。今日、あなたは何をもって、その信仰生活を編み上げようとしているでしょうか?イエス様を落胆させるような、人を侮辱するような言葉をもってでしょうか?それとも、イエス様を喜ばせるような愛の言葉をもって、編み上げようとしているでしょうか?「 私の王の王はイエス様である 」ことを証しするような、愛の言葉をもって編み上げたいものですね。

6月1日(土)マタイ27章32節~44節
   十字架にかかられたイエス様を見上げて、そこを通りかかった人々、祭司長、律法学者たちは、嘲って言いました。「 他人は救ったのに、自分は救えない 」(42節)と。彼らはイエス様を侮辱して言ったのでしょうが、この言葉には「 何という賞賛の言葉か 」、と思わされる響きがあります。私たちは、悲しいかな・・・他人を見捨ててでも自分を救おうとする者です。そんな私たちであると自覚している者にとっては、賞賛に値する言葉としか聞こえません。そして、だからこそ、「 主を信じる者は、だれも失望することがない 」(ローマ10章11節)のです。

6月2日(日)マタイ27章45節~56節
   わが神、わが神、なぜ、わたしをお見捨てになったのですか 」と、イエス様は十字架上で叫ばれました。「 なぜ、この私が・・・」と叫ばれたのです。十字架は、私たちの救いのために必要な事だったからだと簡単に考えることはできません。そうではなく、十字架は、本当は「 あってはならないこと 」だったのです。そうでないと十字架を引き起こした私たちの罪も本来「 あってはならないもの 」だったことが分からなくなります。しかし、その「 あってはならない 」十字架を、神は「 なくてはならないこと 」に変えてしまわれた・・・人が捨てた石を隅の親石にするという、まことに不思議な神のなさり方です・・・それが十字架の真相なのです。十字架はあってはならないことだったという理解は極めて重要です。