2013年5月27日月曜日


先週の説教要旨 「 主のもとにある平安から離れず 」 ルカ22章35節~38節

先週は子どもと大人が一緒に捧げる礼拝をしたが、普段している子どもたちだけの礼拝には大人の礼拝にはないプログラムがある。それは暗唱聖句、聖書の中の一節を覚えるのである。今月の暗唱聖句はヨハネ14章26節の「 父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる 」である。ペンテコステは神の霊である聖霊が信じる者ひとりひとりに与えられたという記念の日であるが、私たちにも与えられているこの聖霊、一体どんなことをなさる方なのかと言えば、この聖句が示す通り、「 キリストが私たちに語ってくださった言葉をことごとく思い起こさせてくださる 」ということ。「 ああ、そう言えば、イエス様がこんなことをお話しておられたね・・すっかり忘れていたけど思い出した 」というようなことではなく、「 ああ、あれはこういう意味だったのか。本当にそうだ。イエス様の言われる通りだ 」と、言われていたことの意味が分かる、納得させられるということである。

今朝のルカ22章35節からの御言葉、弟子たちにとってこれは難解な言葉だったのではないかと思う。あのイエス様が剣を買いなさいと言っておられる・・・。右の頬を打たれたら、左の頬を出しなさいと言われた方が・・・誰よりも愛に生きることを大切にされていた方が、ここでは武器を買いなさいと言われる。これは一体、どういうことであろうか・・・。おそらく弟子たちがこの言葉の真意を理解できたのは、十字架と復活のあと、聖霊が弟子たちに与えられて、その聖霊の働きによって、初めて理解できた言葉であったに違いない。まずイエス様は「 財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか 」と言われた。これはルカ9章1節以下のことを語っておられるのであり、そのとき弟子たちは何も持たずに遣わされ、出て行った。持って行ったのは、弟子たちを遣わすイエス様への信頼のみ。弟子たちは心細かったと思うが、実際、信じて出て行ってみると、全く不自由することなく、思いがけない伝道の成果を与えられて戻って来たのである。イエス様はそのときのことを弟子たちに思い出させながら、しかし今は、財布を持て、袋を持て、剣のない者は、服を売ってそれを買えと言われる。弟子たちはイエス様の言葉にひっかかりを覚えたと思うが、「 主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります 」と答えた。最後の晩餐をしていた家の床の間には剣があり、それを宿の持ち主から買えばいいと弟子たちは考えたのだろう。イエス様は「 それでよい 」と言われた。「 それでよい 」は、原文では「 それで十分 」の意味。十数人の弟子がいるというのに、2本で十分とは・・・。これは明らかに、本気で一戦交えようとしている者の態度ではない。イエス様はこの剣に、何か象徴的な意味を見ておられるに違いない。しかし弟子たちにはそれが分からない。聖霊の助けがなくては分からない。一体、イエス様の剣を買えという言葉は何を意図した言葉なのであろうか・・・・。

 このときの弟子たちは、もうすぐにイエス様から離れて行く。イエス様が捕らえられるとき、弟子たちは恐怖のあまり、イエス様を見捨てて逃げる。イエス様はその弟子の姿と重ねながら「 私から離れて行く者は、どういう者とならざるを得ないか 」を語っておられるのである。弟子たちはどういう者となるか。それは、財布も、袋も、剣も必要な者になってしまう、ということ。イエス様から離れて行く者は、どうしたって、財布も、袋も、剣も必要な人間になる。イエス様は何と鋭く、人の心を見ておられることか。イエス様のもと離れて行く時、人は自分の手で自分を守らなければならなくなる。そこに不安が生まれる。不安を抱えるとき、財布が必要になる。パンを蓄えておくために袋をどうしても確保したくなる。そして、不安が求めて行く最後のものは剣。人を刺し殺す、人を殺すことによってしか、自分を守ることができない・・・・不安というものは私たちをそこまで追い込むものである。実際、弟子たちはこのあと、ひどい不安にとらわれ、復活のイエス様と出会うまで、皆でひとつの家に集って、戸を堅く閉じて、閉じこもる。片時も、剣を手放せないような、怯えきった状態になるのだ。人間が神への信仰を失ったとき、そこにはどんなに荒れた砂漠のような世界が広がることであろうか。皆、財布や袋にしがみつく。何の役にも立たない剣にしがみつかざるを得なくなる・・・。

 弟子たちはイエス様が語っておられたことの意味を、聖霊が与えられ、聖霊の働きによってはじめて、こういうことだったのかと理解した。それと同時、あのときにはまったく心にも残らなかったもうひとつのイエス様の言葉が、とても意味を持つ言葉であったことを理解したに違いない。37節の「 その人は犯罪人の一人に数えられた 」である。イザヤ書からの引用であるが、そこでは「 罪人のひとりとして数えられた 」となっている。イエス様を離れた弟子たちの罪を背負い、弟子たちに代わってその罪の処罰を受けるために、主は罪人の一人に数えられたのだ。暗闇に閉ざされた中に、パーッと光が射して来る。イエス様を離れた自分たちがもう一度、イエス様のもとに戻ることができるように、イエス様は十字架にかかることによって、その道を開いてくださったのである。 (2013年5月19日)