2013年5月19日日曜日


成瀬教会 <聖書日課>  5月20日~5月26日

5月20日(月)マタイ26章14節~16節
   ユダの裏切りの計略です。銀貨30枚でユダはイエス様を引き渡す約束をしました。銀貨30枚、それは今日の数千円程度の金額でしかありません。だからユダはお金儲けのためにイエス様を引き渡したわけではないでしょう。ユダは救い主イエス様にローマからの祖国解放という期待・願いをかけていましたが、イエス様がその願いに応えようとしないことを悟ったとき、自分は裏切られたと思ったのです。神はちっとも私の期待に応えてくれない、私は神に裏切られたと思って生きることは不幸なことです。なぜなら、神はあなたの願いにはるかにまさる大きな祝福をあなたに与えることを願っておられるからなのです。たとえあなたの願いが破れても、神のその願いがあなたには注がれていることを信じましょう。

5月21日(火)マタイ26章17節~25節
   イエス様は最後の晩餐の席で12人の中から裏切る者が出ると言われました。それを聞いた弟子たちは、皆、心を痛め「 まさか、わたしのことでは 」・・・と言い始めます。皆、自分の信仰に確信が持てなかったわけですが、私たちは誰ひとり、「 自分は間違いない信仰に生き抜く自信がある 」などとは言えないのです。「 まさかわたしのことでは 」と言わざるを得ない不確かさを抱えているのです。そんな私たちのために、イエス様は祈り、たえず私たちを引き戻そうと働きかけていてくださいます。そのイエス様の働きの確かさを信じて、主に身を任せて進む、それしか私たちにはありません。ユダだけはイエス様の発言を自分に対するあからさまな発言と受け止めたでしょう。でもそれはユダを引き戻そうとされる働きかけでした。

5月22日(水)マタイ26章26節~30節
    最後の晩餐の席上で、イエス様は今まで決して語られなかった「 弟子の中からの裏切り 」を初めて口にされました。自分が弟子のようにかわいがり、育て、世話した人に裏切られることほど、悔しいことはありません。すべてが暗黒になったと思うでしょう。しかし、その暗黒のただ中で、イエス様は裏切りにも勝つ神の愛を高らかに宣言されています。「 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である 」(28節)と・・・。自分の罪に気づかされて、うずくまり、自分のことを投げ出してしまいたくなることがありますか。そんなあなたにもイエス様は裏切りに勝つ愛をもって私たちに近づいてくださいます。

5月23日(木)マタイ26章31節~35節
    イエス様は「 わたしは復活した後、あなたがたよりも先にガリラヤに行く 」(32節)と言われました。33節のペトロの発言は、31節のイエス様の言葉に反応したもので、「 しかし 」以下の32節の言葉には関心を示してはいません。でも、32節の言葉は実際に弟子たちがイエス様を捨ててしまったとき、弟子たちがとりすがる言葉となりました。ガリラヤ、そこはペトロら弟子たちの故郷であり、イエス様と出会った場所、イエス様に従い始めた場所です。イエス様を捨ててしまい、慙愧の念に耐えられなくなった弟子たちの足は、気がつくとそのガリラヤへと向かっていました。そうです。イエス様先回りして、彼らを迎え、彼らに再出発を促そうとしておられたのです。あなたも意気消沈して帰るガリラヤがありますね。イエス様はそこであなたを待っていて、そこからの再出発をさせてくださいます。

5月24日(金)マタイ26章36節~46節
   イエス様は十字架にかかることが人間の企てであると同時に、それが神の企てでもあることを知っておられました。だから、できれば十字架を回避したいという自身の思いと、十字架を願う父なる神の求めの間で、激しく葛藤されたのです。その傍らで、弟子たちはイエス様のために祈るどころか、眠りこけています。他人の罪や至らなさに対しては、結構厳しい私たちですが、自分の至らなさやいい加減さ、自分の罪が、イエス様にこれほどの思いをさせてしまっているほどに深刻なものだとは少しも考えていない。それでも眠りこける者たちのためにイエス様は決心されました。御心に従うと・・・。その主のお姿を、目を覚して見ている者でありたい。

5月25日(土)マタイ26章47節~56節
   イエス様の逮捕の場面。ユダはイエス様の裏切りの合図として、愛の行為であるはずの接吻を用いました。そんなユダをイエス様は「 友よ 」(50節)と呼ばれます。イエス様はユダの中に、「 共に手をとって助け合い、共に苦しみ、働くべき友の姿 」を見ていたのです。やがて、捕らえられたイエス様への判決を知った時、ユダは後悔し、首を吊って死んでしまいます。彼のことを「 」と呼んだ唯ひとりの人、イエス様は、ユダが息絶えてから間もなく、同じ姿で十字架の木にぶらさがって死なれるのです。それはまるで、友であるユダを陰府にまで追っていたかのような姿です。たとえイエス様の愛を拒否してしまうことがあったとしても、ずっと拒否し続けたままであってはいけない。いつでも、立ち帰る道は開かれています。

5月26日(日)マタイ26章57節~68節
   イエス様の裁判が行なわれています。次々と登場する不利な証言をする人たち、しかしその証言は偽証でしかなかったことが明白になりました。にもかかわらず、大祭司はイエス様の「 ご自分がメシアである 」と明示する発言(64節)を、神への冒涜だとして服を裂き、死刑判決を下しました。自分の目的達成のためには、神さえも利用するという恐ろしい罪がうごめいているこの裁判。イエス様の言葉の前に、私たちは信実に心を裂いて、悔い改めることを知る人間でありたい。