2013年5月19日日曜日


先週の説教要旨 「 主に祈られる信仰 」 ルカ22章24節~34節

 イエス様は「 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい 」と言われた。この言葉によるならば、私たちに信仰を持っているというのは、兄弟たちを力づけるために持っているのだ、ということである。信仰は、自分と他の人とを比べて、「 ああ、自分の信仰の方があの人よりも立派だとか、ちゃんとしている 」と、得意になったり、反対に「 自分はあの人のような信仰は持っていない 」と落ち込み、自己卑下するためにあるのではない。兄弟を力づけるのではなく、相手を落ち込ませたり、あるいは自分が落ち込むための信仰になってしまっているならば、そのような信仰はふるいにかけられて落とされてしまった方がよいのである。

イエス様は最後の晩餐の席で、あなたがたのために十字架にかかって死ぬと宣言された。だが、こともあろうに弟子たちは、その直後に「 自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか 」という議論を始めたという。イエス様は「 この中にわたしを裏切る者がいる 」と、衝撃的な発言もなさったのだから、一体、誰がそんなことをするのかという議論の方が、誰が一番偉いかなどと言う議論よりも、はるかに重要なことであったはず。はるかに真剣に問うべきことを彼らはあっさりと捨てた。 誰が一番偉いか、「 偉い 」と訳された言葉は原文ギリシャ語では「 大きい 」という言葉が使われている。誰が一番、この中で大きいかを言い争ったのである。私たちは彼らのように表立ってどちらが大きいか、比べるようなことはしない。だが内心は、いつも自分と他の人を比べている。そして、この人よりは自分の方が大きいと思って安心したり、あるいはこの人の方が私よりも大きいと、悔しい思いをしたりしているのではないか。彼らが比べていた大きさは何よりも信仰の大きさだろう。イエス様が王位についたときに、誰が右の座、誰が左の座につくのか、そこにつくふさわしい信仰を持っているのは誰なのか・・・を議論した。このとき弟子の筆頭格を自認していたペトロはどうしていたのだろうか。もしかしたら議論に加わっていなかったかも知れない。なぜなら・・・そんなこと聞かなくたって、この俺が一番偉いに決まっている。何をいまさら、つまらん議論をしているのか・・・と思っていただろうから。だが、そんなペトロをイエス様は狙い撃ちなさる。

 「 シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい 」と。当然、シモン・ペトロは反論した。「 主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております・・・ 」。非常にペトロらしい、自分の信仰に対する自信が満ち溢れている。しかしこの後、その自信は見事に打ち砕かれる。ペトロはサタンのふるいにかけられて、その自信はすべて下に落ちてしまい、そこには何も残らなくなる。あれだけ強く、確信をもって語った自分の信仰は何ひとつ残らなかった。ならばイエス様が言われた「 わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った 」という言葉は力を持たなかったということなのか。否、実はペトロの中には、ふるいにかけられたときに「 残らなかった信仰 」と「 残った信仰 」とがあったのだ。残らなかった信仰とは、ペトロの覚悟だとか、ペトロの自信だとか、ペトロの力、そういうものによって支えられている信仰。残った信仰とは、イエス様がペトロのために祈られた。そのイエス様の祈りに支えられて立つ信仰である。自分の信仰が土台から崩壊してしまうような体験の中で、なお残る信仰がある。それはイエス様が私のために祈ってくださっているという信仰。それによって支えられ、立っている信仰である。この信仰だけが、真に私たちを立ち直らせ、そして兄弟を力づけられる信仰なのである。自分の力によって立っている信仰では、弱っている兄弟を力づけられない。弱って力がないのだから、立てと言っても所詮無理なのである。だが、あなたはイエス様に祈られている、あなたも支えられているのだということならば、弱った兄弟をも力づけることができる。立たせていただける。

サタンがペトロをふるいにかけることを願って、それが聞かれた。そんなに簡単にサタンの求めに応えてしまわれる神であっては困る、と思うかも知れない。だが、ペトロをふるいにかけたことに関して、神の目的とサタンの目的とは全然違うのだ。サタンはペトロを落とすためにふるいにかけた。しかし神は、打ち砕かれる経験を通してその先にある奉仕、兄弟を力づけられる人間へとペトロを変えるために、ふるいにかけられたのである。自分の決意や力に頼る信仰を取り除き、主に祈られているという支えによってだけ立つ信仰へと導くための試練。私たちは大小種々の苦しみを負いながら毎日を生きている。しかしその苦しみはそれを乗り越えた時にどうするのか、ということまで神によって計られた上で与えられる苦しみだと言ってはいけないだろうか。その先を、立ち直った時のことをも見据えたところで与えられる苦しみ。サタンが狙うような単に落とすためだけの苦しみではない。その苦しみの中で主に祈られて立つことを体験したあなただからこそできる、兄弟を力づける奉仕をも計ったところで与えられる苦しみなのである。(2013年5月12日)